驚きが怒りに

ルカ福音書4章20~30

「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて・・・」(4:22)

人々は主イエスの言葉に感心しますが、そのうち何が言いたいのかと不審に思ったのです。

「医者よ、自分自身を治せ」(4:23)

カファルナウムでめざましい働きをしたと聞くが、
故郷のナザレで癒しの業をやってくれ、
よその町でやることはない、というのです。

「預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。」(4:24)


預言者は、為政者をきびしく批判したため、
排斥され、時には投獄されることもありました。

「大飢饉が起こったとき、エリヤは・・・シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。」(4:25~26)

北王国イスラエルの王アハブは、バアルの神を持ち込んで、祭司と預言者を抹殺しようとします。
エリヤはヨルダン川の東に逃れ、さらに地中海沿岸の町サレプタに逃れます。
空腹のエリヤは、一人のやもめにパンを求めますが、女性はこう答えます。

「わたしには焼いたパンなどありません。ただ壺の中に一握りの小麦粉と、瓶の中にわずかな油があるだけです。・・・それを食べてしまえば、あとは死ぬのを待つばかりです。」(列王記上17:12)

エリヤは、言います。
わたしのためにパンを焼いてくれるなら、壺の粉は尽きることなく、瓶の油はなくならない。
こうして、貧しい女性の暮らしが守られ、エリヤも生き延びることが出来たのです。

続いて、エリシャの故事です。
シリア人の将軍ナアマンは重い皮膚病にかかり、エリシャを訪ねます。
ところが、「ヨルダン川で七度身体を洗え」と言われて、立腹します。
しかし、部下たちにいさめられ、言われた通りやってみると、すっかりきれいな肌になった。

これは、イスラエルの預言者に、大国の将軍がひざまずく話です。
自分たちの預言者はこんなに偉いのだ、という風に人々は受け止めてきました。

主イエスは、こう語ります。

「イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」(4:27)

神は、すべての民の神であって、イスラエルの民だけの神ではない。
この言葉に、ナザレの人々は愕然とします。

半藤一利さんは、日本人には二つの欠点がある、と指摘しています。
当座しのぎの根拠のない楽観性と、排他的同調性です。

ナザレの人々の姿は、わたしたちの排他性に通じるものがあります。
ひたすら身内の幸せを願い、周りの人たちに目を向けようとしない、閉ざされた態度です。

神は、すべての人、なかでも貧しい人、圧迫されている人を解放しようと望んでおられます。
そのために、主イエスは十字架への道を歩まれたのです。
(2021年2月14日)

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