あなたがたは幸いだ

ルカ福音書6章20~26

「貧しい人々は、幸いである・・・」(6:20)

という言葉は、文語訳が語感をよく伝えています。

「幸福(さいわい)なるかな、貧しき者よ・・・」。

詩編には、この表現が何度も出てきます。
ルカ福音書6章の場合は、前半で「幸い」が、後半で「不幸」(新しい翻訳では「災い」)が語られています。
この「災いだ」は、預言者の言葉として繰り返し出て来ます。

「災いだ。貧しい人を踏みつけにして、贅沢な暮らしをするあなたがたは・・・」
という言い回しです。

主イエスは、詩編の「幸いだ」と預言書の「災いだ」を重ねる形でお語りになったのです。

「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。」(6:20)

この言葉は、弟子たちに語りかけたものです。
あなたがたは、本当に貧しい。
すべてを捨てて、わたしに従って来た。
網を捨てた者、家族を残してきた者、みんな体一つでわたしに従って来た。

そして、明日どうなるか分からないなかで、旅を続けている。

そんなあなたがたは幸いだ、と語りかけられた。
そして、すべての人は神から祝福されているから幸いだ、と広がっていくのです。

「人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、
ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。」(6:22)


これは、主イエスご自身にあてはまります。
そして、弟子たち、さらに福音書が編集された時代の初代教会の人々の姿を反映しています。

今あなたがたは、ユダヤ人社会から追い出され、ローマ帝国から圧迫されている。
でも、そんなあなたがたは幸いだ、と語りかけるのです。

聞いている人たちは、詩編126篇を思い出したことでしょう。

「涙と共に種を蒔く人は/喜びの歌と共に刈り入れる。」(詩編126:5)

目の前の苦難を乗り越えた先に、神の祝福が約束されている、と詩編は歌うのです。

「富んでいるあなたがた・・・今満腹している人々・・・今笑っている人々・・・すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。」(6:24~26)

という言葉は、なかなかきついですね。
わたしたちはお金持ちではありませんが、少なくとも飢えてはいません。
そんなわたしたちは、災いなのだろうか、と考え込んでしまいます。

そんなとき、マザー・テレサの言葉を思い出します。
「貧困をつくるのは、神ではなく、私たち人間です。私たちが、分かち合わないからです。」

わたしたち自身が分かち合いの心を失って、心を閉ざしているのです。
マタイ福音書25章のように、渇いている目の前の人に一杯の水を差し出すだけの愛を、
わたしたちが取り戻す必要があるのです。
(2021年5月2日)

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