ルカ福音書6章37~42
「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。」(6:41)
小さな「おが屑」と大きな「丸太」が比較されています。
自分の目が節穴であることに気づかないで、
目の前の人のささいな間違いを正そうとしている。
その滑稽さに気づかないのかというのです。
正しさを求める時、ほんの少し意見が違うだけで、激しく対立することがあります。
昨日まで一緒にやってきたのに、
仲たがいして憎み合うようになる。
自分が大切にしていることを、
目の前の人が軽んじると、腹が立って許せないのです。
主イエスの言葉をどう受け止めるかということについて、
初代教会で対立がありました。
自分が大切に受け止めていることを、
別の人はそれほど大切なことと思っていない。
真っ向からぶつかると、
それが憎しみに変わっていくのです。
だからパウロは、
「自分を過大に評価してはなりません。」(ローマ書12:3)
「兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。」(ローマ書12:10)
と語ったのです。
「人を裁くな・・・人を罪人だと決めるな」(6:37)
人を裁くな、あの人は神に背いていると決めつけるな。
「赦しなさい」(6:37)
アポリューオーは「囚人を解放する」という言葉ですから、
とがめ立てせず見逃しなさい、というのです。
「与えなさい。」(6:38)
気前よく与えなさい。
自分が正しいと思って、相手の間違いを指摘するのは、大きなお世話だ。
そもそも、あなたの方が間違っているかもしれない。
「弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。」(6:40)
「修行を積む」カタルチゾーは、「十分に整える」という意味の言葉で、
ここでは受身形です。
ですから、
主イエスによってしっかり訓練されたら、神の御心が分かるようになる。
その訓練の中身が、
「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。」(6:27~28)
という言葉につながるのです。
一緒に歩んで来たはずの友人を、怒りや腹立ちによって、
あなた自身が敵に回している。
そんな怒りを抑えて、神に祝福を祈り、とりなすことによって、
あなた自身の怒りやいらだちを消していただきなさい。
こうして、対立も和解へと導かれるのです。
(2021年6月27日)