悪霊を叱る

ルカ福音書4章38~44

「シモンのしゅうとめが高い熱に苦しんでいたので、人々は彼女のことをイエスに頼んだ。」(4:38)

「苦しんでいた」スネコーは、圧迫されて苦しむという言葉です。
これは、高熱に押さえ込まれている人を解放する出来事なのです。

「イエスが枕もとに立って熱を叱りつけられると、熱は去り、彼女はすぐに起き上がって一同をもてなした。」(4:39)

「叱りつける」エピティマオーは、悪霊を「叱る」(4:35)
悪霊を「戒めて」(4:41)

と同じ言葉です。

「起き上がる」アニステーミは、「復活」につながる言葉です。
高熱で死に瀕していた状態から、起こされ、連れ戻されたのです。

「もてなす」ディアコネオーは、「食卓で給仕する」という言葉です。
そこから、「仕える」という意味に広がります。
教会でよく使われる「奉仕」はディアコニア、「執事」つまり教会役員はディアコノスです。

当時は、高い熱が出たら命は無いものと覚悟しなければなりませんでした。
また、病人に近づくと、その人も死に至る、そんな感覚だったでしょう。
にもかかわらず、主イエスは枕元に立って、癒しの言葉をかけられたのです。

「日が暮れると、いろいろな病気で苦しむ者を抱えている人が皆、病人たちをイエスのもとに連れて来た。イエスはその一人一人に手を置いていやされた。」(4:40)

重い病いで苦しむ人に触れるのは、常軌を逸した態度です。
人々は感染を恐れ、できるだけ近づかないようにしました。

「いやされた」(4:40)

は未完了過去形で、一晩中、癒しの業を続けたという、継続表現です。

一段高いところから一声かけ、たちどころに大勢の病人を癒やしたという奇跡が語られているのではありません。
病人のすぐ側で力を尽くされた主イエスの姿に、注目する必要があります。

「朝になると、イエスは人里離れた所へ出て行かれた。」(4:42)

人々からもてはやされることが、果たして良いことなのかと問い直されたのです。

「群衆はイエスを捜し回ってそのそばまで来ると、自分たちから離れて行かないようにと、しきりに引き止めた。」(4:42)

これからも病人を癒してほしい、ここにいてもらわなければ困る、と言って引き止めたのです。
しかし、イエスは言われます。

「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ。」(4:43)

ここに留まって、病気の人たちをなんとかして助けたい。
しかし、神は、「神の国の到来を伝えよ」、と命じておられる。
わたしは神の御心に従う、と決意なさったのです。
(2021年2月28日)

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