荒れ野で叫ぶ者の声

ルカ福音書3章1~6


皇帝ティベリウス、総督ポンティオ・ピラト、そして3人の領主の名前が挙がっています。
ルカがこうした名前を挙げるのは、二つの理由からです。
世界史の中に正しく位置づけようという意図と、預言書の文体になぞらえて、神によって立てられた預言者としてヨハネについて語っていく、この二つです。

「神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。」(3:2)

神がヨハネを預言者として立てて、その活動が始まった、というのです。

「そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。」(3:3)

「悔い改める」はヘブライ語でシューブ、神のもとに「立ち帰る」という言い方をします。
旧約聖書では、一人ひとりの悔い改めというよりも、共同体全体の悔い改めという意味合いが強く、社会的な危機や改革と、深く関係しています。

一方、新約聖書では、「悔い改め」はギリシア語ではメタノイア、動詞形がメタノエオー、これは方向を変えるという意味の言葉です。
十字架と復活の福音を受け入れて、一人ひとりが全人格的に方向転換をすることを意味します。

旧約と新約とで、重点が変化していることに注目する必要があります。

「罪の赦しを得させるために悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。」(3:3)

ヨハネは「神の裁きの日は近い。神の怒りを免れるために、悔い改めてバプテスマを受けよ」、と呼びかけました。
ある意味で、脅したのです。

わたしたちがキリスト者となる際に受けたバプテスマは、これと違います。
キリストの死と復活に与って神の子とされる、そのしるしとしてバプテスマを受けたのです。

自分の破れを告白し、主イエスを信頼して歩む、十字架の死と復活に与らせてくださいと願って、喜びをもってバプテスマを受け、新しい命に生きるのです。

「谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。」(3:5~6)

これは、イザヤ書40章からの引用です。
踏みつけにされている弱い人や小さな者が、正当な扱いを受ける、そしてすべての人が救われると、宣言しています。
こうして、ヨハネが主イエスの備えをする意味が語られています。
(2021年1月10日)

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