どうすればよいのですか

ルカ福音書3章7~20


「『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。」(3:8)

アブラハムは、イスラエルの先祖の名前です。
自分たちはアブラハムの血を引く神の民だから、決して神の罰を受けることはないなどと思うな。

「良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」(3:9)

人々は、

「では、わたしたちはどうすればよいのですか」(3:10、12、14)

と尋ねます。

ヨハネはこう答えます。

「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」(3:11)

着る物を二枚持っていたら、裸でいる人に一枚貸してあげなさい。
また、自分に食べる物があり、目の前の人に食べ物がないなら、分けてあげなさいというのです。

この人たちは、その日食べるのがやっとの人たちです。
そんな人たちに、目の前に困っている人がいたら助けなさい、分かち合いなさい、と勧めたのです。

神の裁きを恐れて、バプテスマを受けただけでは駄目だ。
悔い改めとは、神を見上げて、それまでの行動をすっかり変えることだ。
目の前の人と分かち合うように変えられるはずだ、というのです。

着る物のない人、食べる物のない人のつらさに気づかない、冷たい心、そして思いやりに欠けた感性が問題なのです。
しかし、人間には限界があります。中途半端な者は、良い実を結ばない者として、焼き払われてしまうのでしょうか。

こんなたとえ話が13章に出て来ます。

「もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。」(13:7)

園丁が答えます。

「『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」(13:8~9)

わたしたちは、困っている人がいても、見て見ぬ振りをする、冷たい人間です。
しかし、そんなわたしたちのために、主イエスは執り成してくださるのです。

ヨハネのきびしい言葉を聞くと、自分は駄目な人間だという思いが先に立ってしまいます。
しかし、
あなたがたは赦されている。
父なる神に愛されている。
だから勇気を出しなさい、という言葉が響いてきます。


「悔い改めにふさわしい実を結べ。」(3:9)

というヨハネの言葉を、きびしいムチとして聞くのではなく、
わたしたちの冷たい心を解きほぐす言葉として受け止めましょう。

目の前に困っている人がいたら助けなさい、という主の声に従い、わたしたちの周りに温かい関係を作り出していきましょう。
そんなわたしたちを、主は見守り、喜んでくださるのです。
(2021年1月17日)

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