神の恵みに包まれて


ルカ福音書2章40~52



「幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。」(2:40)

「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。」(2:52)


40節と52節がほぼ同じ文章で、これが枠組みになっています。
「愛された」と翻訳されていますが、原文は「神と人の恵み(カリス)によって、進んでいった」です。
「恵み」(カリス)は、神から受ける恩恵、贈り物、そして人から受ける好意を意味します。



「知恵」(ソフィア)は、「知識」とは違います。
「知恵」で思い出す言葉が、旧約聖書に二つあります。

「主を畏れることは知恵の初め/聖なる方を知ることは分別の初め。」(箴言9:10)

神を恐れ敬うこと、これが知恵なのです。
そして、真実を見抜く知恵は、神にから与えられるものです。

もう一つは、ソロモンの知恵です。

「あなた(ソロモン)は自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命も求めることなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた。」(列王記上3:11)

ソロモンは、王として正しい判断をくだせるよう、知恵を求めたのです。


なぜこんなことをしたのかという母マリアの詰問に対して、少年イエスがこう答えます。

「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」(2:49)

原文に「家」という言葉はありません。
「わたしが父のそれに・・・」です。
「わたしが自分の父と共にいることを、ご存知なかったのですか。」という答えです。


「どうしてわたしを捜したのですか。」という言葉は、復活の朝に重なります。

「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。」(24:5)

あなたがたは、何度も聞いたはずだ。

「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」(24:6~7)

だから、いくら墓を探してもそこにはいない。
なぜわたしを捜すのか。
「わたしが自分の父と共にいるのは、必然なのだ。」
この言葉は、主イエスがマリアとヨセフの元を離れ、神に従って受難の道を歩んでいくことを暗示しています。

「母はこれらのことをすべて心に納めていた。」(2:51)

マリアは、少年イエスの言葉を理解できなかった。
しかし、何か大切なことが隠されているのではないかと思って、その言葉を心に深く記憶していた、
そして何度も思い返していたのです。

「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。」(2:52)

しかし、神に従う時、人々の怒りをかい、受難の道へと進んで行かざるを得なかったのです。
(2021年1月3日)

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