主の救いを見た

ルカ福音書2章21~40


シメオンは

「イスラエルの慰められるのを待ち望み・・・」(2:25)

アンナは

「エルサレムの救いを待ち望んで・・・」(2:38)

いました。
これは、イザヤ書につながっています。

「慰めよ、わたしの民を慰めよと/あなたたちの神は言われる。エルサレムの心に語りかけ/彼女に呼びかけよ/苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを/主の御手から受けた、と。」(イザヤ書40:1~2)

つまり、今や慰めの時、解放の時が来た、というイザヤの預言が成就した、というのです。


「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。」(2:29~30)

シメオンは、願いがかなえられたと感じ取って、

「今、わたしは安らかに御許に行くことができます。どうかわたしを、御許に召してください。」

と祈るのです。


「これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光」(2:31~32)

「イスラエルの慰め」を待ち望んでいたシメオンでしたが、
ここで限界を超えて「すべての民の救い」を歌います。

わたしたちの祈りは、嘆きや訴えから始まります。
しかし、神の御心を知って、視野が広がっていくのです。

「啓示」とは、覆いが取り払われて神の真意が明らかになることをいいます。
主イエスが、神の御心を語ってくださった。
わたしたちを何とかして救いたいと、熱い思いで見守っておられる、神の真実を明らかにしてくださったのです。


「この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。」(2:34)

これは、イザヤ書8章を受けています。
主イエスの言葉を、受け入れるか拒むか、一人ひとりが問われます。
主イエスがどれほど神の御心を伝えても、大多数の者が拒む。
しかし、わずかだが「残りの者」が、主イエスの言葉を受け入れて従う、というのです。
そして、マリアに向かって告げます。

「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」(2:35)

我が子の幸せを願う母の思いが拒絶され、受難への歩みを見守るほかない辛さを味わう。
さらに、目の前で殺される姿を見て、心が引き裂かれるような痛みを覚えることになる、と預言するのです。

「多くの人の心にある思いがあらわにされるため」(2:35)

主イエスの言葉を聞いても、多くの人は疑って受け入れず、敵意を抱く。
その生涯は平穏なものでなく、敵意と憎しみに囲まれたものとなる。
しかし、それは神の救いが実現するためなのだ、と神を賛美したのです。
(2020年12月27日)

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