新しく造られる

ガラテヤ書6章

「互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。」(6:2)

教会の中で互いに親切にしようというのは、ずいぶん狭い考えだ、という印象を受けます。
しかし、目の前の人に対する愛の奉仕をないがしろにして、社会正義を振りかざすようなことを、パウロはよしとしないのです。

「人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。」(6:7~8)

これは、「善行を積めば、報いがある」という意味ではありません。
「刈り取る」という言葉は、神の前での総決算、終わりの日の裁きを念頭においています。

「肉に蒔く」とは、何を成し遂げたかを拠り所にして生きることです。
これは、人にほめられることを期待して行動することにつながります。

そうではなくて、「霊に蒔く」のです。

ただキリストの真実を拠り所にして生きるのです。

どんなに軽んじられている人でも、
神が愛しておられるのだから、助け支えるのです。

「人からよく思われたがっている者たちが、ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに、あなたがたに無理やり割礼を受けさせようとしています。」(6:12)

ここで、「人から」とは、「ユダヤ人たちから」という意味です。

割礼を受けなくても救いが与えられるという考えは、ユダヤ人の反発を招きます。
割礼を受け、ユダヤ教徒となって、神の救いを得ようとしているのですと言えば、迫害されずに済む。
彼らは、あなたがたの救いのためにではなく、自分たちがユダヤ人から迫害されないように、あなたがたに割礼を授けようとしているのだ、というのです。

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「割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。」(6:15)

最も恥ずかしく惨めな姿で、友のために命を捨てたキリストの真実を信頼して、
キリストの愛の教えに生きる者とされる。
自分の努力によってではなく、神の命の力によって、神を信頼して従う者へと変えられるのです。

「割礼」をユダヤ教の儀礼と考えていては、
わたしたちと何の関わりもありません。
「割礼」を、立派な人間になろうとすることと捉えると、どうでしょうか。

立派な正しい人間になろうとするとき、わたしたちは弱い人を見下し、人の目を気にして過ちを犯します。
社会規範に従うのでなく、
たとえ非難されようとも、目の前の人の重荷を担う。
キリストの十字架を仰ぐ時、新しく生まれ変わることができるのです。
(2020年11月8日)

 

 

 

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