主の憐れみによって

ルカ福音書1章57~80


「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し・・・」(1:68)

「訪れる」とは、神がご自分の民に近づいて、救うことを意味します。
「解放し」は、新しい翻訳では「贖い」と訳されています。

c-sakana1a

「贖い」とは、借金のかたに奴隷に身を落とした人や捕虜になった人を、親戚の人が身代金を払って自由の身にすることです。
主イエスを「贖い主」と呼ぶのは、ご自分の命を代価としてわたしたちを買い戻し、
罪の力から解放してくださったからです。

「幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである。」(1:76~77)

これはメシアに先立って歩むバプテスマのヨハネの生涯を語っています。

聖書の語る「罪」は、個人の罪だけでなく、
共同体としての罪を含んでいます。

社会的な歪みの故に生きる力を失っている状態を、「罪」と呼ぶことが多いのです。

ですからここでは、一人の人が悔い改めて救われるというよりも、
むしろ無気力な状態の民をもう一度立ち上がらせてくださる、というニュアンスが強いのです。

「この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。」(1:78~79)

社会が闇に覆われている、そしてわたしたちも闇の中に閉じ込められている。
希望を失ってうずくまっている者、道しるべを失ってさまよう民に、大いなる希望が与えられるのです。

「平和」は、ギリシア語ではエイレネー、
ヘブライ語ではシャロームです。

シャロームは、幅広い概念です。
戦争がないだけでなく、幸せに満ちている、健康である、心が穏やかである。
人との関係も神との関係も、満たされている。
そんな状態です。

そんな「平和」シャロームが、今、実現しようとしている。
なんと嬉しいことか、とザカリアは歌うのです。

c-sakana2a

ザカリアは、10ヵ月近く言葉を失っていました。
神の罰を受けたと考えて家に閉じこもり、自分の生涯やイスラエルの民の歴史を振り返ったのです。

そして、預言者たちの言葉を思い返すなかから、
主を誉め讃える歌がほとばしり出たのです。

「憐れみ」は、具体的な行動に至ります。
気の毒に思い、近寄って介抱し、癒す働きです。

主イエスは貧しいナザレの人として生き、
重い病の人、捨てられている人、罪人とされている人に近づいて、友と呼び、共に食事し、交わりを回復してくださった。
そんな歩みを通して、希望を与え、シャロームへと導いてくださるのです。
(2020年12月13日)

 

ホームページに戻る