主が目を留めてくださった

ルカ福音書1章39~56


「わたしの魂は主をあがめ、/わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。」(1:47~48)

こんなに小さな、何の取り柄もない者に、神が目を留めてくださった、とマリアが歌います。

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「その憐れみは代々に限りなく、/主を畏れる者に及びます。」(1:50)

「憐れみ」エレオスは、ヘブライ語では「ラハミーム」、
これは「レヘム」子宮から来ています。

子宮が痛む、目の前の気の毒な人を見て、胸が張り裂けそうになるという言葉です。

強盗に襲われて倒れている旅人を見て、

「憐れに思い」(10:33)

介抱する善きサマリア人のたとえにも出て来ます。
羊飼いを見失って道に迷う羊のような、わたしたちの無惨な姿を見て、
神ははらわたがちぎれるような思いでおられる、というのです。

新型コロナが広がるなか、パートや契約社員の多くが仕事を失っています。
そして、自殺者が増加しています。
女性の自殺が前年に比べて80 %も増えている、というのです。

誰も助けてくれない、自分はひとりぼっちだ、
という孤独感に追い詰められているのです。

そんななかで、首相が「自助」を声高に繰り返しています。
「憐れみ」は、これと対極にある言葉です。

「主はその腕で力を振るい、/思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、/身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、/富める者を空腹のまま追い返されます。」(1:51~53)

これは、「神の裁き」を歌っています。
「裁き」ヘブライ語でミシュパートという言葉は、「義」ツェダカーと対で語られます。

ツェダカーは、さおばかりの左右のバランスが取れているという言葉です。
つまり、右と左で偏りがない、公平公正である、ということです。
ですから神の「裁き」は、わたしたちを罰して懲らしめるものではなく、
神の義が実現すること、
力ある者が弱い者を踏みつけにするような歪んだ社会を、神が正してくださる。
そして、互いに支え合い、いたわり合う関係へと導いてくださることをいうのです。

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「思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし」(1:51~52)

これは、上の者と下の者の立場が引っ繰り返る、そんな逆転ではありません。
神の公平・公正が実現するのです。
絶望することなく、神が必ず歪みを正してくださると信じて、

「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く」(ローマ書12:15)

のです。

神は、わたしたちを用いて、その業をなさるのです。
アドヴェントのこのとき、
神様がこのわたしをどのように用いようとされるのか、
耳をすませながら、歩んでいきましょう。
(2020年12月6日)

 

 

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