すべての人が招かれている

ガラテヤ書2章1~14

 

「おもだった人たち」という言葉が、4回繰り返し出て来ます。
この言葉は皮肉な響きを含んでいます。
あの人たちは重要人物とみなされているが、実は・・・と批判的に見ているのです。

エルサレム教会の指導者たちは、勝手な振る舞いを続けるパウロをエルサレムに呼んで、改めさせようと考えた。
しかしパウロは、異邦人に割礼は不要だ、それは主イエスの十字架を無にすることだ、と主張して譲らなかったのです。

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「テトスでさえ、ギリシア人であったのに、割礼を受けることを強制されませんでした。」(2:3)

指導者たちの思惑を、神が働いてはねのけてくださった、とパウロは理解します。
ユダヤ人への使徒としてペトロが立てられているように、異邦人への使徒として自分が認められた。
握手して別れたのは、その証拠だ、と語るのです。

これは、主イエスの十字架から20年ほど、福音書がまだ書かれていない頃の出来事です。

主イエスに従うとはいえ、やはり律法を守るべきだと考える人と、律法を守ることはもはや不要だと考える人がいて、意見が分かれたのです。

「ケファがアンティオキアに来たとき、非難すべきところがあったので、わたしは面と向かって反対しました。」(2:11)

アンティオキアは、属州シリアの中心都市で、エルサレムでユダヤ教から迫害されたキリスト者がこの町に逃げ込んで、教会を作っていました。
いろんな民族が住む国際都市であり、
ペトロは当初、異邦人とも一緒に食事をしていました。

ところが、主の兄弟ヤコブが派遣した人たちがエルサレムからやって来ると、ペトロは態度を変えて、異邦人と一緒に食事するのをやめるようになった。
このペトロの態度を、パウロは皆の前で非難したのです。

元々あなたは、ローマの百人隊長の一家にバプテスマを授けて、一緒に食事をしたではないか。
それをエルサレムの教会の人たちが批判した時、これは神から示されたことだと、反論したではないか。

主イエスは、「罪人」とされて排除されている人たちと一緒に食事をなさった。
ここに、神の御心がはっきりと示されている。
そのことを思い出してほしい。

ここには、パウロの思いがあふれています。

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これは、初代教会が大きな分岐点にあったことを示しています。
それまでのように律法の掟を守り、割礼を施す、それに主イエスの福音を足し算する方が、無難です。
敵を作らなくて済みます。

しかし、それでは異邦人を排除することにつながります。
あえて苦言を呈しながら、主イエスの十字架の福音によって、
律法の掟に従う必要はなくなった、異邦人に割礼は不要だ、とパウロは訴えたのです。

対立を避けるために妥協の道を歩むのか、
はっきりと論点を示しながら主に従って歩むのか、
わたしたちも問われるのです。
(2020年9月20日)

 

 
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