キリストの真実によって

ガラテヤ書2章15~21

 

 

「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる」(2:16)

律法の行いによってではなく、ただ信仰によって義とされる。
パウロが説いた「信仰義認」をルターが再発見したことが、宗教改革につながりました。

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「信仰」ピスティスは、信頼、誠実、まこと、真実、という意味の言葉です。
2年前に出版された日本聖書協会共同訳では、「イエス・キリストへの信仰」が、「イエス・キリストの真実」に変わりました。

主イエスは、父なる神の御心を語り、「罪人」の友となった。
そして、父なる神の御心に従って、十字架につかれた。
このイエス・キリストの真実によって、わたしたちは義とされる、と考えるのです。

これは、ギリシア語に即した読み方から来ています。

「義」はギリシア語でディカイオシュネー、裁判において無罪とされるという意味の言葉です。ヘ
ブライ語で「義」はツェダカー、公正な秩序、神の意志に従った生き方、神との正しい関係という意味を含んでいます。
ところで、

「律法の実行ではなく・・・」(2:16)

という言葉で、パウロは何を言おうとしたのでしょうか。

前後関係から、パウロが律法自体を否定しているわけでないことが分かります。
そうではなくて、割礼を異邦人に要求し、食事規定の厳守を求める態度を批判しているのです。

律法の掟をどこまでも守ろうとする態度は、主イエスに従う道だろうか、とパウロは問いかけます。

主イエスは、「罪人」と食事を共にし、安息日の掟を破ったことによって、
律法を軽んじ神を冒涜する者とされて、十字架にかけられた。
このことを、忘れてはならない。
あなたたちは、キリストを十字架につけた指導者たちと同じ考え方をする者たちに、振り回されている、というのです。

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律法の細部にこだわる態度は、結果的に「罪人」を作り出し、異邦人を排除することにつながる。
あの人は汚れている、あの人は罪人だ。
いや、わたしも罪人だという風に、
互いにレッテル貼りをして排除することに行き着いてしまうではないか、というのです。

キリスト者ならこうあるべきだという考え方は、人を排除し、人と人との関係を損なうことにつながります。
信仰のあり方やキリスト者としてのあり方にこだわるあまり、他の人を許すことができない、
こうした私たちの姿勢が問われるのです。
(2020年9月27日)

 

 

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