迫害する者が使徒とされた

ガラテヤ書1章11~24

 

「わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。」(1:12)

「啓示」とは「覆いを取り去る」という意味です。
神の御心がどこにあるか、主イエスが示してくださったというのです。

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自分は熱心なユダヤ教徒であったし、教会を迫害し滅ぼそうとしていた。

「しかし、わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされた」(1:15~16)

これは、エレミヤの召命(エレミヤ書1:5)に重なります。

自分はエレミヤと同じように、生まれる前から神の計画の中にあった。
熱心なユダヤ教徒で、ファリサイ派であったことも、その計画の中にあった。
そして、異邦人への宣教のために、使徒とされた。
すべて、神の計画であったと言うのです。

これは、ずいぶん勝手な言い分に聞こえます。
しかし、パウロ自身がそう受け取ったのです。

なぜあんなに教会を迫害したのか、なぜあれほどユダヤ教に熱心だったのか。
思い返してみると、神の計画の中にいたとしか思えないのです。

 

異邦人に福音を伝えることは、当然のことではありませんでした。
異邦人は決して救われない、と考えられていたのです。
ところが、福音を異邦人に伝えるようにとの声が、パウロに響いたのです。

これには、パウロの育った環境が関係しています。
パウロは、キリキアのタルソスで生まれ、異邦人に囲まれて育ったのです。

この頃のキリスト者は、ユダヤ教の会堂に集っていました。
彼らは、

「『かつて我々を迫害した者が、あの当時滅ぼそうとしていた信仰を、今は福音として告げ知らせている』と聞いて、
わたしのことで神をほめたたえておりました。」(1:23~24)

迫害者が使徒とされた、これは神にしかできない奇跡だと、人々が神をほめたたえている。
これこそ、神がわたしを用いている証拠ではないか、と言うのです。

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手紙を書いた当時、パウロは警戒の目で見られていました。
まだ福音書はなく、主イエスについての断片的な伝承が伝わっていただけです。

そんな中でパウロは、教会を迫害した自分のような人間が、
異邦人に福音を伝えるという驚くべき務めを与えられた、ここに神の真実が表れている、と語るのです。
人々の誤解や攻撃を浴び、命の危険にさらされながら、パウロは宣教の旅を続けました。
ときには船が難破し、投獄され、ユダヤ人たちに殺されそうになります。
迷い、悩み、怒りながら、そして自分の過去に涙しながら走り続けた、パウロが残した手紙を、
続けて読んでいきましょう。
(2020年9月13日)

 

 

 

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