マタイ福音書26章45~56
「ユダはすぐイエスに近寄り、『先生、こんばんは』と言って接吻した。」(26:49)
「こんばんは」と訳されているのは、「喜ぶ」カイローという言葉の命令形で、
カイレーあるいはカイレーテです。
山上の説教でも出て来ます。
ののしられ迫害されたとき、
「喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。」(5:12)
そして、ローマの兵士たちが主イエスを取り囲んで
「『ユダヤ人の王、万歳』と言って、侮辱した。」(27:29)
この「万歳」と訳されているのも、同じカイレーです。
そして、復活の日の朝、女性たちの前に復活の主が現れます。
「すると、イエスが行く手に立っていて、『おはよう』と言われた」(28:9)
これも、カイレーテです。
親愛の情を表す接吻が、皮肉なことに、この人だという合図でした。
「友よ、しようとしていることをするがよい」(26:50)
直訳すると、「君は、何のために来たのか」です。
「君か、どうするつもりだ。」そんな言葉です。
「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。」(26:52)
主イエスは、教訓のように「どんな時にも武器を取ってはならない」と言われたのではありません。
今ここで剣を抜いて戦うのは、わたしが使命を果たすうえで、何の役にも立たない。
戦うのを止めなさい、と言われたのです。
「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。」(26:55)
「強盗」レステースは、今日で言えば過激派とかテロリストというニュアンスの言葉です。
「『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしている。」(21:13)
「強盗」は律法を無視して弱者から搾り取る無法者であり、「羊飼い」と対極です。
あなたがたは民を導くべき「羊飼い」でありながら、「強盗」のように民を食い物にしている。
そんなあなたがたが、まるで「強盗」を捕らえるように、わたしを取り押さえるのか、という皮肉が込められています。
「しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」(26:54)
そして、
「このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書いたことが実現するためである。」(26:56)
神の意志によって、救いの御業が、今、成し遂げられようとしている。
そのために、わたしは黙って縄目につくというのです。
「このとき、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。」(26:56)
この時、主イエスは、神の御心に従って、黙って縄目についてくださった。
自分たちは、恥ずかしいことに、一目散に逃げ出してしまった。
主イエスの御心に思いが及ばなかった。
この記事は、そういう深い悔いの残る証言にもとづいているのです。
(2020年6月28日)