神の子、メシアなのか

マタイ福音書26章57~75

「この男は、『神の神殿を打ち倒し、三日あれば建てることができる』と言いました」(26:61)

「神殿を打ち倒す」という言葉には、いくつもの意味が込められています。
建物としての神殿が打ち壊される時が来る。
そして、神殿を拠り所とするあなたがたの権力が、いつまでも続くわけではない。
さらに、神から遣わされた主イエスが処刑されることを、含んでいます。

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大祭司は、それは事実かと主イエスに自白を迫ります。
しかし、

「イエスは黙り続けておられた。」(26:63)

これはイザヤ書53章の「苦難の僕の歌」を受けています。
黙り続けている主イエスに、いらだった大祭司が言います。

「お前は神の子、メシアなのか。」(26:63)

「イエスは言われた。

『それは、あなたが言ったことです。』」(26:64)

ユダヤの人々が期待していた「メシア」は、
かつてのダビデ王のように戦いを勝利に導く英雄であり、ローマの支配を打ち破る力強い王です。

大祭司は、「お前が神から遣わされた力強い王であるはずがない。」と、言ったのです。

これに対して主イエスは、「メシア」の意味する内容がかけ離れており、
全く話が通じないため、
「それは、あなたが言ったこと」、と言われたのです。

まことのメシアとは、自分の力を誇示して君臨するのではなく、
もっとも弱い者に神の愛が注がれていることを伝え、
自分の命を差し出してすべての人の罪を贖う御方なのです。

主イエスが尋問されている様子を中庭からうかがっていたペトロは、
「あなたも仲間だ」と声をかけられて、
「いや、あの人など知らない」と三度もシラを切ります。

「どこまでも従います」と言った数時間後に、
「そんな人など知らない。わたしの言葉が嘘であれば、呪われてもいい。」
とまで断言したのです。

自分の力で立派に主に従ってみせるという自負心が音を立てて崩れたそのとき、主イエスの言葉が響いてきます。

どんなに情けない姿でわたしを裏切ろうとも、わたしはあなたを見捨てない。
惨めな失敗を犯したその時、主イエスの言葉を思い出して、涙をこぼしたのです。

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だからこそ、主イエスの十字架は、わたしのためである、と言えるのです。
どこまでも従いますと胸を張る立派なわたしではなくて、
失敗を繰り返す腰砕けのわたしを、主イエスは赦し、今も招いていてくださるのです。

弱さを恥じる必要はありません。
自分の弱さに打ちのめされる時こそ、神に出会う恵みの時となるのです。
(2020年7月5日)

 

 

 

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