御心のままに

マタイ福音書26章36~46

なぜ主イエスは、

「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」(26:39)

と祈られたのでしょうか。

主イエスは、迫ってくる死の恐怖に震えていた、人間らしい弱さがここに出ている、という読み方があります。
しかし、わたしはむしろ、
これほどのことを自分が引き受けても、ユダヤの民は何一つ変わらないのではないか、
あるいは惨めな死の姿を見て、弟子たちが衝撃を受け、打ちのめされるのではないか、
そんなことを心配なさったのではないか、と思うのです。

c-sakana1a

死から逃れたいと願って苦しまれたというよりも、
自分の死の意味を、誰ひとり理解することができないのではないかと悩み、
本当にこれでいいのでしょうか、
と神に問われたのです。

「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」(26:36)

「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」(26:38)

今にも、捕らえられる時が迫っている。
本当に追い詰められ、恐ろしい。
だから、一緒に目を覚ましていてほしい、と言われたのでしょうか。

むしろ、自分が祈る姿から父なる神の御心を知り、
無惨な死が単なる敗北ではないと気づいてほしい。
神の御心に気付かないまま終わったら、本当に残念だ。
弟子たちを思う心が、ここに溢れています。

そして、二度目に、

「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」(26:42)

聖書で「杯を飲む」とは、自分の運命を引き受ける、という意味ではありません。
神の怒りを身に受けて、滅びることです。
すべての人々の罪に対する神の怒りを、わたしが身に受けることによって、救いの業は成就する。
あなたの御心が行われますように、と祈られたのです。

c-sakana2a

大事なときに眠り込んでいた弟子たちの姿は、わたしたち自身の姿です。
これを、「しっかり目を覚ましていなさい。頑張れ。」と教訓のように受け止めたのでは、
無理に力んで、周りの人をむち打つことにつながります。

主イエスご自身が、自分が受ける苦しみが意味を持つのでしょうか、と神に問われたのです。

「あなたの不安と恐れ、悲しみをすべて委ねなさい。御心のままに、と祈りなさい。」

という主イエスの声が、今も響いてくるはずです。
(2020年6月21日)

 

 
ホームページに戻る