マタイ福音書27章11~26
総督ピラトによる尋問が始まります。
「お前がユダヤ人の王なのか」「それは、あなたが言っていることです」(27:11)
元の言葉は、「あなたが言ったこと。」
口語訳聖書は、「その通りである。」と翻訳しました。
「そうだ、わたしこそユダヤ人の王、メシアだ。」と威厳に満ちて答え、それ以上は何も答えなかった。
こう解釈したのです。
新共同訳では、翻訳が変化しています。
「ユダヤ人の王」、すなわちメシアについての理解が違うと警告なさった、
と解釈したのです。
人々は、ローマの支配を打ち破る王としてのメシアの到来を期待していたのです。
ピラトは、本気で「ユダヤ人の王か」と問うたわけではありません。
お前のように無力な者が、反逆を企てるはずがない。
きっと濡れ衣に違いない、と考えたのです。
主イエスの沈黙は、イザヤ書53章を受けています。
「苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。」(イザヤ書53:7)
「ところで、祭りの度ごとに、総督は民衆の希望する囚人を一人釈放することにしていた。」(27:15)
「どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか。」(27:17)
バラバとあだ名されるイエスと、メシアと呼ばれるイエスを対比する、皮肉な言いまわしです。
ピラトは、何とかして主イエスを釈放しようとします。
しかし、
「群衆はますます激しく、『十字架につけろ』と叫び続けた。」(27:23)
権力者の弱さが、露わになっています。
群衆の勢いに押されて、勝手にしろという感じになっていったのです。
「ピラトは、それ以上言っても無駄なばかりか、かえって騒動が起こりそうなのを見て、水を持って来させ、群衆の前で手を洗って言った。『この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。』」(27:24)
「お前たちの問題だ。」という言葉は、わたしたちに向かって、響いてきます。
あなたの無責任な態度が、人を不幸にしていないか。
夢を実現してくれそうに見えるバラバか、自分の命を捧げてわたしたちを愛し抜いてくださるナザレの人イエスか、
あなたはいったいどちらを選ぶのか。
ピラトの妻だけが、「正しい人を傷つけないでほしい」と発言しました。
しかし、ピラトは妻の助言を生かすことができませんでした。
わたしたちも、ピラトと何ら変わりません。
そんなわたしたちのために、主イエスは命を捧げてくださったのです。
その意味を、かみしめたいと思います。
(2020年7月26日)