まさか わたしのことでは

マタイ福音書26章14~25 

 

出エジプトの出来事は、奴隷の家からの脱出です。
それは、奴隷という苦しい立場からの脱出であると共に、
偽りの神ファラオの束縛からの解放でもあったのです。

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「わたしはファラオの心をかたくなにする」(出エジプト記7:3)

神がファラオの心を頑なにしたのは、なぜでしょうか。
それは、ファラオとモーセとのやりとりを通して、ファラオが神ではなく、ただの人間に過ぎないことを示すためです。

様々な災いの最後に、エジプト中の長子が命を落とすという災いが臨みます。
これが、過越の食事につながります。
なぜ、長子を撃つという災いが与えられたのでしょう。
ファラオが生身の人間でしかないことを、決定的に明らかにするためです。

そんな中で、小羊の血を戸口に塗るのは、迷信のようにも思える振る舞いです。
そんなことに何の意味があるのかと疑ったら、それでお終いです。

しかし、これは象徴的な選択です。
まことの神に従うか、偽りの神に従うか、あなたはどちらを選ぶのか、という決断が迫られるのです。

人間は、我慢してそれまでの暮らしにしがみつくか、
危険を犯して新しい一歩を踏み出すか、決断を迫られます。

偽りの暮らしにしがみつかないで、真実の生き方へと出発せよというのが、出エジプトの物語であり、
その大きな区切りになっているのが、過越の食事です。

出エジプト記の編集者は、出エジプトの物語を語りながら、
実はユダヤの国の王権のあり方に対する批判をにじませています。

古くからの伝承を語り伝えながら、実は目の前の現実を批判しているのです。

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「わたしと一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、わたしを裏切る。」(26:23)

すると弟子たちは、

「主よ、まさかわたしのことでは」(26:22)

と口々に言い始めます。ユダは、

「先生、まさかわたしのことでは」(26:25)

と言います。ユダは、もはや「主よ」と呼ぼうとしません。

ユダに対する主イエスの答え、

「それはあなたの言ったことだ。」(26: 25)

「お前がそう言うのか」、「どの口が、そう言うのか」という感じです。

ここには、ユダに対する主イエスの憐れみがあふれています。
何日も一緒に旅をし、親しく食事をし、友として語ってきたはずなのに、
ついにわたしの願いを分かってくれなかったのか、という残念な思いです。

滅びに向かう途中でなんとか踏みとどまって、立ち帰ってほしいという思いがあふれています。
わたしたちは、ユダとどれほど違うでしょうか。
今あなたはどちらの道を選ぶのかと問われている出来事として、過越の食事の記事を受け止めましょう。
(2020年5月24日)

 

 
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