無駄なこと

マタイ福音書26章1~16

 

「ベタニアで香油を注がれる」物語は、祭司長たちのたくらみとイスカリオテのユダの動きに挟まれています。

 

舞台は、ベタニアの「重い皮膚病の人シモンの家」(26:6)です。
「重い皮膚病」にかかった人は、神の罰を受けた者とされ、村から追放されました。

病気が治った後も、差別は続いたでしょう。
主イエスは、死を目前にしている時も、差別に苦しむ人と共に歩まれたのです。

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そこに、

「一人の女が、極めて高価な香油の入った石膏の壺を持って近寄り、食事の席に着いておられるイエスの頭に香油を注ぎかけた。」(26:7)

当時、宴会の席に女性が連なることは、許されませんでした。
この女性は、無作法を非難されるのを承知のうえで、食事の席に入って行ったのです。
頭に油を注ぐことは、王の即位を意味します。
ですから、この女性の行為は、「あなたはメシアです」という信仰告白を表します。

また、葬りにあたって香油を塗ることを指しています。

主イエスは、日が暮れて安息日が始まる前に急いで十字架から下ろされ、葬られました。
時間がなくて、葬りの準備が十分にできなかったのです。

「弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。
『なぜ、こんな無駄使いをするのか。高く売って、貧しい人々に施すことができたのに。』」(26:8~9)

貧しい人に施すのは正しいことなのに、なぜ主イエスは、弟子たちの言葉をさえぎったのでしょう。
そして、この女性の行為を

「わたしに良いことをしてくれた」(26:10)、

「世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」(26:13)

とまで評価したのでしょう。

自分はこの過越の祭で十字架につけられて殺される、と主イエスが予告したにもかかわらず、弟子たちは聞き流していました。
イスカリオテのユダは、こともあろうに祭司長たちに主イエスを引き渡そうとしていました。

そんななかで、この女性だけが主イエスの言葉を真剣に受け止めて、感謝と信頼を態度で表したいと願って、香油を注ぎかけたのです。

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女性のやったことは、理性的に考えれば愚かに見えます。
ほんの数滴でいい香油を、丸ごと使うなんて無駄なことです。
でも、そこに表れているのは、溢れる想いです。
主イエスに対する感謝、どうしても死ななければならないのですか、という切なる想いがあふれています。

だからこそ、この女性をとがめる弟子たちに対する主イエスの残念な思いは、大きかったのです。

「ベタニアで香油を注がれる」物語が、受難物語の最初に置かれていることを、心に刻みたいと思います。
(2020年5月17日)
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