苦難の僕の歌

イザヤ書53章1~12

「乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように」(53:2)

乾ききった荒れ野に、新しい芽が芽生える。
これは、

「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち・・・」(11:1)

につながります。
エッサイは、ダビデ王の父です。

ユダの国が滅ぼされ、ダビデ王家は断絶した。
しかし、切り倒された木の切り株から、希望の若枝が生え出る、というのです。

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「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。」(53:3)

重い皮膚病の人が自ら顔を隠す、あるいは逆に無惨な姿に人々が顔を背ける。
この人は神の罰を受けたのだ、と誰もが思った。
ところが、

「彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。」(53:5)

「わたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。」(53:6)

本来、預言者は何百年も先のことを語るものではありません。
今起こっている出来事の意味を語る、
あるいは今まさに起ころうとしている出来事を告げて警告する、
それが預言者の姿です。

とすれば、これは何を語ろうとしているのでしょうか。

バビロニアによって南の王国ユダが滅ぼされ、
何千人もの主だった人たちがバビロンに連行されました。

エルサレム神殿が破壊されたという報せに、人々は希望を失います。

屈辱と絶望のなかで、第二イザヤと呼ばれる無名の人が、
再びエルサレムに帰る日が来る、救いの日は近いと語りました。

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神の前に正しく生きた人が、どうして悲惨な死を遂げるのかという問いに対して、
第二イザヤは「苦難の僕の歌」を残し、
そこに主の御心が隠されていると語りました。

それから数百年経って、主イエスの十字架の死に衝撃を受けた人々が、
これをイザヤの預言の成就であると受け止めました。

ナザレのイエスこそ救い主であると確信し、その信仰を教会は語り伝えてきたのです。

クリスマスは、神が御子をすべての人の救いのために差し出された出来事です。
その御心を素直に受け止める時、
主イエスの十字架が意味あるものとなります。

救い主は、輝かしい栄光の姿で来られるわけではありません。
御心をお示しください、と十字架の主を仰ぎつつ、歩んでいきましょう。
(2019年12月15日)

 

 
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