マタイ福音書26章26~30
聖書に記録されている「契約」には、どんな特徴があるでしょうか。
ノアは、自分の家族だけが生き残り、
丸裸になって仲間も誰もいないなかで大きな不安に包まれていたはずです。
アブラハムも、父の家を離れて故郷を旅立ったものの、先の見通しなどなかったのです。
ヤコブは、父を欺き、兄が受けるべきものを奪った悪党です。
モーセは、荒野の旅を続けていました。
いずれも、危機に直面し途方に暮れるなかで、
一方的に神から「赦しの約束」が与えられたのです。
「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。」(エレミヤ書31:31)
エレミヤは、エルサレムの崩壊を目撃した預言者です。
危機に直面する中で、神はあなたがたを捨てようとしているのではない。
厳しい罰を与えたうえで、新しい関係に入ろうとしておられるのだ、と語っています。
「来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。
すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。
わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
そのとき・・・彼らは・・・わたしを知る・・・。
わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。」(エレミヤ書31: 32~34)
これは、崩壊の前夜に語られた、一方的な赦しの約束です。
頼りない者も立派な者も、神と深い信頼関係で結ばれる。
滅びを避けることは出来ないけれど、その後にすべての罪が赦されて、神との新しい関係に入るというのです。
危機の真っ只中で、罪深い者に「赦しの約束」が与えられる。
これが聖書の語る「契約」です。
「掟を守って正しい民となれ」といった、道徳的なものではありません。
打ちひしがれ、途方に暮れる民、罪の中でもがく人間に、
「わたしがあなたがたを導く。あなたがたを赦し、とことん守る」、
という約束が与えられるのです。
これこそ、わたしたちの希望の根拠です。
「これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」(26:28)
この言葉は、ユダの裏切りの予告と弟子たち皆がつまずくという予告に挟まれています。
裏切った者、逃げ出した者への「赦しの約束」のしるしとして、主イエスの血は流されたのです。
「わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」(26:29)
これがあなたがたとの最後の食事だ。
しかし、これで終わりではない。
父の国で、あなたがたとともに喜びの食事をする日が必ず来る、という約束です。
あなたがたは、わたしを捨てて逃げ出す。
しかし、あなたがたには、天の父がおられる。
父なる神の愛の中を生きなさい、という赦しが語られているのです。
(2020年6月7日)