考え直して出かける

マタイ福音書21章23~32

 

「何の権威でこのようなことをするのか。」(21:23)

「このようなこと」とは、神殿の商人たちを追い散らしたことを指しています。

商人たちは、神殿当局の許可を得ていました。
傷のない犠牲を捧げるために、羊や鳩を売ってくれる店が必要でした。
また、ローマ皇帝の肖像が刻まれている貨幣での献金は許されなかったので、古代の銀貨に両替する必要がありました。
それなのに、強盗呼ばわりして叩き壊した。
お前はいったい何の権利があってこんな乱暴をするのか、と厳しくとがめたのです。

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主イエスは問い返します。

「ヨハネのバプテスマは・・・天からのものか、それとも、人からのものか。」(21:25)

ヨハネのバプテスマは、神を忘れて罪を重ねていることを悔い改めて、神の赦しを乞うものでした。
神に立ち帰るしるしとして、ヨルダン川に身を沈めたのです。
ヨハネがヘロデによって処刑されると、預言者を殺してしまったという非難の声があがりました。

そんななかで、あなたがたが見殺しにしたヨハネは、神から遣わされた預言者だったと思うか、と主イエスは問うたのです。
これは、わたしはヨハネと同じように、神から権威を授かっているという宣言です。
祭司長たちが振りかざす権威は、律法や伝統による支配でした。
人々を束縛し、従わなければ神の罰を受けると言って恐れさせる権威です。
しかし、天からの権威は、愛に満ちています。
罪を赦し、人を自由にし、解放するのです。

「ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。・・・この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」(21:28~29、31)

一人は、最初は逆らったが、考え直して従った。
もう一人は、良い返事をしたが、従わなかった。
どちらが神に従ったか、というのです。
「考え直す」メタメローマイは、後悔する、悔いるという意味の言葉です。
「悔い改める」はメタノエオー、「悔い改め」はメタノイアで、方向転換するという言葉です。
日本語で「悔い改める」というと、涙をこぼして悔い、懺悔して赦しを乞うといったニュアンスがありますが、そんなことではありません。
ヘブライ語では、「立ち帰る」シューブという言い方をします。
この世の強い力やお金の力に惹かれ、名誉を求めて走っていたものが、立ち止まって反転し、神のもとに帰って行くのです。

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「徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。」(21:31)

ここでは、人間扱いされず、社会から排除され、軽蔑されている人たちを、「徴税人や娼婦」という言葉で、語っています。

罪人とされた人たちは、「考え直して」神に従った。
しかし、あなたがたは、態度を改めようとしない。
わたしたちも問われています。
見かけは立派だが内実が伴わず、神に背き続けるのか、それとも考え直して神に従うのか、と。
(2020年1月5日)

 

 

 

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