祝宴への招き

マタイ福音書22章1~14

 

「招いておいた人々にこう言いなさい。『食事の用意が整いました。・・・すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。』」(22:4)

 

「招く」(カレオー)という言葉は、
「わたしが来たのは・・・罪人を招くため」(9:13)
につながっています。

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「しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ・・・」(22:5)

招きに応えようとしなかった。
予定は前から分かっていたのです。

何をおいても駆けつけるべきなのに、招きを無視した。
お招きは有り難いが、ペースを乱されるのは嫌だ。
自分のやりたいようにやらせてもらう。
そういう態度です。

そこで、王は命じます。

「町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。」(22:9)

「家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来た」(22:10)

「善人も悪人も皆」という言葉は、「敵を愛しなさい」につながっています。

「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。・・・父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(5:44~45)

「町の大通り」とは、「町の通りの出口」です。
にぎやかな通りが途切れて、そこから先は田舎という境目です。
ここには、神の民と異邦人との境目という意味が隠されています。
救いや律法から縁遠い人を連れて来なさいというのです。

「友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか」(22:12)

「礼服」を着ていない人が、なぜ叱責されるのか、旧約聖書の記事を知ると、納得できます。

「主は救いの衣をわたしに着せ/恵みの晴れ着をまとわせてくださる。」(イザヤ書61:10)

「あなたに仕える祭司らは正義を衣としてまとい・・・救いを衣としてまとわせる。わたしの慈しみに生きる人は/喜びの叫びを高くあげる」(詩編132:9、16)

主は「救いの衣」、「恵みの晴れ着」、「正義」と「救い」をまとわせてくださるのです。
ですから、主が準備してくださる「礼服」を、喜んで受けかどうか、なのです。
わたしは今のままでいいと強情を張る態度が、きびしく叱責されているのです。
しかし、「礼服を着る」ことを意識し過ぎると、おかしなことになります。

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良い行いを重ねなければ神の前に出ることができないと考えたのは、ファリサイ派です。
わたしたちは、神の招きを喜んで受けるだけでいいのです。
受け入れられた喜び、招かれた喜びにあふれて、隣人と共に生き、人をいたわり、愛に生きるのです。
(2020年1月19日)

 

 

 

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