神への然り、皇帝への否

マタイ福音書22章15~22

 

「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか」(22:17)

ローマへの税金は納めるべきだと答えたら、裏切り者というレッテルを貼られて民衆の支持を失う。
払わなくていいと答えたら、ローマへの反逆をそそのかしたとして反逆罪で訴える。
どちらに転んでも、主イエスを葬り去ることができる罠が仕掛けられたのです。

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主イエスの時代のデナリオン銀貨には、皇帝ティベリウスの横顔が刻まれ、
ラテン語で「神聖なアウグストゥスの子、皇帝ティベリウス・アウグストゥス」、
つまり「神の子である皇帝ティベリウス」と刻まれていました。

「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」(22:21)

皇帝の名前が刻んであるのだから、皇帝に返せばいいだろう。
お金に名前が刻んであるからといって、その人の物ではありません。

これは、皮肉を言っているのです。

「神のものは神に」も、
「お前たちこそ、神のものは神にお返しせよと言って、神殿税を取り立てているではないか」、
と痛烈に皮肉っているのです。
4世紀にキリスト教がローマの国教とされて以来、教会が皇帝を権威付け、皇帝が教会を守る関係が近代まで続きました。
国家と教会という二つの権威が並び立つ、二元論的な理解が定着してきたのです。
「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。」(ローマ書13:1)

この言葉に縛られている人が、大勢います。
「上に立つ権威」と聞くと、王様や国家を思い浮かべます。
国家に逆らってはならない、国家に忠誠を尽くすべきである、と教会は教えてきたのです。

しかし、これは国家論ではありません。

町の秩序を守る役人や警官に逆らわないようにしなさい、彼らは悪人を取り締まってくれるのだから、という話です。

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「わたしをおいてほかに神があってはならない。」(出エジプト記20:3)

これは、十戒の第一戒です。
偶像礼拝を考える時、人間を神としてはならないということが重要です。
ところが、日本にキリスト教が伝えられたとき、神仏を拝んではならない、という意味に矮小化されたのです。

「神は御自分にかたどって人を創造された。」(創世記1:27)

人間は、神の似姿として造られました。
人間には、神のものであるとの刻印が刻まれています。
神の似姿にふさわしく生きていこう、そう決意して、歩んでいきましょう。
(2020年1月26日)

 

 

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