祈りの家

マタイ福音書21章12~17

 

「わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。」(21:13)

これは、イザヤ書56章からの引用です。
この1行だけ読むと、神殿は「祈りの家」だから神聖な状態にしなければいけない、という意味になります。

しかし、イザヤ書56章で何が語られているかに注目すると、違う側面が見えてきます。

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「正義を守り、恵みの業を行え。」(イザヤ書56:1)

「神の公正と正義を回復せよ」という命令です。
さらにこう続きます。

「主のもとに集って来た異邦人は言うな/主は御自分の民とわたしを区別される、と。宦官も、言うな/見よ、わたしは枯れ木にすぎない、と。」(イザヤ書56:3)

異邦人や宦官は、神殿で犠牲を捧げることが許されず、ある場所までしか入れませんでした。
そんな彼らに、「自分たちは排除されている」と嘆かなくてもよい。

「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。」(イザヤ書56:7)

すべての人が排除されることなく、招かれているというのです。

「お前たちのささげる多くのいけにえが/わたしにとって何になろうか、と主は言われる。」(イザヤ書1:11)

イザヤ書の冒頭の言葉です。

「お前たちの血にまみれた手を洗って、清くせよ。・・・悪を行うことをやめ/善を行うことを学び/裁きをどこまでも実行して/搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り/やもめの訴えを弁護せよ。」(イザヤ書1:15~17)

神の公正と神の義をないがしろにしたまま、いかに厳かな礼拝を捧げても無駄だ。
弱い人を踏みつけにしている、あなたたちの汚れた手を洗い清めよ。
公平さをどこまでも貫け。
「子供」、「小さな者」を守り支えなさい。

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主イエスの怒りは、エルサレム神殿の祭儀が厳かでないとか、商売で騒々しいということに向けられているのではありません。
社会の仕組みが歪み、公正さを失っていることに対する神の怒りが告げられているのです。

立派な捧げものを捧げる人、厳かな礼拝を捧げる人が、祝福されるのではない。
神の前に出ることができず、うつむいている人たち、小さな者、弱い者こそ、大切に扱われる。

欠けの多いわたしたちを、神は愛し、生かして用いてくださるのです。
神の息吹がわたしたちに宿って、力を与えてくださる。
わたしたちの能力を超えた働きをすることが、許されている。
そのことを感謝して受け止めましょう。
(2019年11月10日)

 
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