子ろばに乗って

マタイ福音書21章1~11 

 

「ダビデの子にホサナ。」(21:9)
という場面は、イースターの1週間前の「棕櫚(しゅろ)の主日」に読まれる聖書箇所です。

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「それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。」(21:4)

これは、ゼカリヤ書9章を指しています。

「見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る」(ゼカリヤ書9:9)

「従う」はツェデクというヘブライ語で、神の「義」「正しさ」とも訳され、「裁く」「公平に民を扱う」という意味を含んでいます。
「高ぶることなく」はアニーというヘブライ語で、「貧しい」「足りない」という言葉です。
それが、「自らを低くする」、「謙遜な」という意味に転じていきます。

マタイ福音書では、「柔和な方で」(21:5)と訳されています。
ここは、「柔和で優しい姿で」ということではありません。
「貧しくみすぼらしい姿で」、幼いろばに乗って来られる。
そこに、あなたはどういう意味を見いだすか、という問いなのです。

 

 

「向こうの村へ行きなさい。」(21:2)

これは、前後関係からするとベタニアです。
ベタニアにはマタイとマリアの姉妹、そして弟ラザロが住んでいました。
ベタニアは、ヘブライ語で「悩みの家」「貧困の家」、周りの人がこう呼んで、軽蔑したのです。

「イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家におられたとき」(26:7)

一人の女性が高価な香油を主イエスに注ぎかけたという記事の書き出しです。
ベタニアは、重い病気の人たちが身を寄せ合って暮らす、差別された村だったのです。
そんな差別された家に身を寄せて、主イエスはエルサレムに通われたのです。

みすぼらしい姿でエルサレムに入られた主イエスの姿から、
この御方がどんな方か、何をしようとしたかを悟れ、ということなのです。

しかし、人々はそれを悟ることなく、「ダビデの再来」だと期待をかけて歓迎したのです。
そして、わずか数日後に、主イエスは十字架にかけられて処刑されたのです。

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そもそも十字架は、メシアに似つかわしくない、みっともない姿です。
嘲られた姿、弱々しい姿、それはイザヤ書53章が描く「主の僕(しもべ)の歌」に重なります。
キリストに従うとは、立派な人間になることではありません。
あえて貧しい姿、みすぼらしい姿をとって、
人々にお仕えになった主イエスにならうことが求められるのです。
(2019年11月3日)
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