慰めの時

イザヤ書40章1~11

 

「慰めよ、わたしの民を慰めよ」(40:1)

ヘブライ語の「慰める」ナーハムは、
深く息を吸い込む、力づけるという言葉です。
嘆きのあまり希望を失った人に、

うつむいていないで神を見上げよ。
神の力を受けて、立ち上がれ。

そんな力強い言葉です。

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「エルサレムの心に語りかけ/彼女に呼びかけよ」(40:2)

「心に語りかける」は、愛する女性を口説き落とす、という言葉です。
相手の心に染み入るまで、誠意を尽くして語り続ける。
うちひしがれて心を閉ざしている民に語りかける、神の激しい愛を示す言葉です。

このときすでに、エルサレムの都は滅んでいました。
祖国が滅ぼされ、頼みとする神殿も破壊されてしまった。
それから何十年も経ち、バビロンに連れて来られた人たちは年老いて、次々と亡くなっていきます。
もはや生きて帰る望みを断たれているのです。
深い絶望と屈辱のなかで、苦しい暮らしが続きます。

さらに深刻なのは、神から見捨てられた、神はいつまで沈黙しておられるのか、という疑念です。

「主よ、帰って来てください。いつまで捨てておかれるのですか。あなたの僕らを力づけてください。」(詩編90:13)

「力づけてください」という言葉は、「ナーハム」です。
新しい翻訳では、「憐れんでください」とされています。
「いつまで捨てておかれるのですか」と嘆く民に、

「慰めよ、わたしの民を慰めよ」

という言葉が響くのです。

度重なる背きの故に、神からきびしく罰せられた。
もはや何の希望もないと嘆く民を、神のあふれる愛が包むのです。

「恐れるな」(40:9)

という言葉は、降誕物語にたびたび出て来ます。
マリアへの受胎告知の場面で、荒れ野で野宿していた羊飼いに天使たちが表れた場面で、
「恐れるな」という声が響きます。

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「解放の時は近い」と聞いても、手放しで喜ぶことができないのです。
異国で暮らして、すでに何十年も経っています。
やっと慣れてきた暮らしを捨てて、またゼロからやり直すのか。
年老いてもう一度苦しい思いをするよりも、このままでいいという思いが起こってくるのです。

誇りを奪われた、屈辱の暮らしの中にあっても、新しいチャレンジを恐れる気持ちがあるのです。

今わたしたちにも、「恐れるな」という声が響きます。
偽りの生活を捨てて、新しい歩みを始めなさい。
新たな出発の時に備えよ、わたしを見上げて力を得よ、という呼びかけに応えて、
アドヴェントの日々を歩みましょう。
(2019年12月1日)

 

 

 

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