すべての人が問われる

マタイ福音書25章31~46 

 

「飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた」(25:35~36)

最初の四つ、
食べること、飲むこと、寝ること、着ること、
これは「衣食住」を意味しています。

「旅をしていたとき」は、新しい翻訳では「よそ者であったとき」となっています。
「宿を貸し」は、「受け入れる」という言葉です。
怪しい奴、あんな奴は早く町から追い出せ、と白い目で見られている時に、受け入れてくれた、というのです。

「牢にいたとき・・・」は、迫害を受けた初代教会の記憶を反映しています。
生活に困窮しているだけでなく、社会的に圧迫を受け、冷たい仕打ちを受け、のけ者にされている時に、
あなたは受け入れてくれた。
そして、その苦しむ人々と共に、主イエスがおられると語るのです。

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「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」(25:40)

これは、福音書の別の箇所ともつながっています。

「わたしの名のために このような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」(18:5)

ここで「子供」は、軽んじられている者という意味を含んでいます。
苦しむ者を友として受け入れる者は、わたしを受け入れることになるというのです。

でも、これを掟のように考えると、まるで律法の呪いのようになってしまいます。
主イエスの言葉は、掟ではありません。

こんな風に生きる時、あなたにほんとうの喜びが与えられる、という主イエスの招きなのです。

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結びは、助けなかった人は「永遠の罰を受け」(25:46)とされています。
聖書は、みんなの前で巻物を読む形で伝えられました。
ポイントを聞き逃さないように、繰り返す必要がありました。
こうしたら神が喜んでくださるという言い方を裏返して、こうしなかったら・・・と語るのは、一つの話法です。

ところがこれが一人歩きして、教会の壁画などに、きびしい罰を受ける様子が生々しく描かれたのです。

罰を恐れて、困っている人を助けるのではありません。
神の御心にかなうからです。
主イエスは、「罪人」とされる人々に神の愛を伝え、愛を貫いた果てに、神を冒涜する者として十字架にかけられました。

愛の業は、報われることがないかもしれません。
しかし、神は見ておられ、喜んで神の国に迎え入れてくださるのです。
(2020年4月5日)

 

 

 

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