主を待ち望む

マタイ福音書25章1~13

 

主イエスのたとえは、身近な話を取り上げながら聞く人にショックを与え、
それまで当たり前としていたことを、これでよかったのだろうかと考え直させます。

「だから・・・だ」と結論づける部分は、たいていの場合、福音書記者による編集句です。

たとえのなかの一つひとつを何かに当てはめていくのは、適切ではありません。

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中心的なテーマだけに注目すべきです。

油の用意が間に合わなかったからといって締め出すなんて、神様は冷たいと思うかもしれません。
しかし、主イエスが再び来られる日の準備ができているか、できていないと大変なことになるぞという、
この一点が強調されているのです。
準備ができているかと言われても、油断している、見当違いのことに夢中になっている。
これが正直なところです。

しかし、こういう話しを聞くと、しっかり目を覚ましていないと締め出しを食う、欠けのない模範生として生きようとします。

しかし、主イエスはそんなことを語られたでしょうか。

むしろ、逆なのです。

わたしには、何の誇るべきものもありません。
本当に情けない人間です。
罪人のわたしを赦してください。
こう、徴税人は祈りました。(ルカ18章)
そんな姿勢を、むしろ受け入れてくださるのです。

「目を覚ましていなさい」(25:13)という言葉を、
注意深く頑張ること、立派に生きることに直結させていくと、無理な要求につながります。

わたしたちは、眠り込むしかない弱さを抱えているのです。

それを、すべてご存知のうえで、赦してくださるのです。
その愛の中を、神を信頼して歩むのです。

いつ主イエスが来られてもいいように、注意深く、正しく生きていこう、と力み返るのではなくて、
赦された者として、互いに赦し合い、支え合って生きる。
十字架の主を仰ぎながら、主イエスが共にいてくださる、聖霊が共におられることを信じて、愛の業に生きるのです。

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わたしたちは日々の暮らしの中で、
裏切られるようなこと、気落ちするようなこと、がっかりするようなことを、度々経験します。
しかし、それにくじけないで、十字架の主イエスを仰ぐのです。

主イエスが、どれほど人々から誤解され、裏切られ、侮辱されたか、を思い起こしましょう。
そうすれば、自分がそこまで苦しんでいないこと、いかに自分勝手に生きているか、に気づくはずです。

受難節にあたって、十字架に向かって歩まれた主イエスの歩みを仰ぎつつ、
「目を覚ましていなさい」という言葉をあらためて味わい直しましょう。
(2020年3月22日)

 

 
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