マタイ福音書23章37~24章2
「イエスが神殿の境内を出て行かれると・・・」(24:1)
何でもない表現ですが、象徴的な意味を読み取ると、
「神の子が、神殿を去る」
と読めます。
しかし、弟子たちは、「なんと見事な神殿でしょう。」と心を奪われていたのです。
そんな弟子たちに、主イエスは衝撃的な言葉を語られた。
「一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」(24:2)
「驚くな。この神殿は破壊されて、廃墟になる。」
エルサレム神殿は、紀元70年にローマによって破壊されました。
ローマに今も残るティトゥス帝の凱旋門には、ローマ軍が神殿から宝物を掠奪する様子が刻まれています。
主イエスが十字架にかけられたのは紀元30年頃、
福音書が編集されたのは紀元80年代です。
神殿の破壊は、世の終わりが来たというほどの衝撃を与えたはずです。
神は、どういうおつもりなのか。
そんな思いが、主イエスの言葉の背後にあります。
「神殿の荘厳さに見とれていてはならない、肝心なことに目を向けよ。」
これは、大聖堂や立派な礼拝堂に感心するわたしたちの姿に重なります。
そういう上辺のみごとさにではなくて、何に目を向けるべきかが問われるのです。
「『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言うときまで、今から後、決してわたしを見ることがない。」(23:39)
これを裏返すと、
「『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言うとき、わたしに会うことができる。」となります。
主イエスの十字架に神の愛を見いだす時、主に会うことができる。
再臨のキリストは、「雲に乗って来られる」としばしば考えられています。
これは、ダニエル書7章の表象を受けて、マタイ、マルコ、ルカの福音書、そしてヨハネ黙示録に受け継がれたものです。
さらにミケランジェロの「最後の審判」の図が、これに拍車をかけることになりました。
しかし、主イエスはそんな再臨の姿を語られたのではありません。
「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた」(25:35~36)
「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」(25:40)
最も小さい者、みすぼらしく惨めな者を友とする時、主はそこにおられる。
業績をあげることに価値を見いだすのではなく、軽んじられている人、弱い人と共に生きるとき、
神は喜んでくださるのです。
(2020年3月1日)