マタイ福音書22章34~46
ユダヤの人たちは、今でも朝昼晩、「シェマー・イスラエル・・・」と唱えます。
「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(申命記6:4~5)
ですから、これを第一の掟とするのは当然です。
これと並んで大事なのは・・・ということで、むしろ「隣人を自分のように愛しなさい。」(22:39)の方に力点があります。
あなたがたは毎日のように、「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」と唱えているが、それは隣人を愛することに尽きる、というのです。
「畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。・・・これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。」(レビ記19:9~10)
何千年も前に、これほど人道的な掟があったことに驚きます。
この言葉の背景には、イスラエルの悲しい歴史があります。
北の国がアッシリアに滅ぼされたとき、大勢の人が南の国へ逃げ込みました。
しかし、逃れてきた人を南の国の人たちは歓迎しませんでした。
だからこそ、「あえて落ち穂を残し、飢えをしのげるようにしてあげなさい」、と戒めたのです。
冷たい心を持つわたしたちに対する戒めなのです。
「復讐してはならない。・・・恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。」(レビ記19:18)
この言葉は、「愛敵」の教えにつながっています。
「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(5:44~45)
あなたを苦しめ、つらい思いにさせる隣人を愛しなさい、と語られたのです。
「愛の反対は、憎しみではありません。無関心です。」マザー・テレサの言葉です。
日本の人は豊かな暮らしをしている。
しかし、あなたの隣に誰からも声をかけられることなく、寂しい思いで暮らしている人がいる。
それでいいのか、と言われた。
あなたがたファリサイ派は、正しい人には隣人として親切を尽くしなさい、しかし罪を重ねる者は隣人ではない、と線引きをしている。
そんな考えを神は喜ばない。主イエスは、こう語られたのです。
マタイ福音書25章にあるように、
目の前の飢えている人渇いている人に、一杯の水を差し出し一杯のご飯を差し出すことから始まるのです。
主イエスは、すべての人のために十字架にかかってくださった。
何の値打ちもないわたしたちに、愛を注いでくださった。
その愛に押し出されて、隣人を愛することができるのです。
(2020年2月9日)