マタイ福音書18章10~14
「一匹が迷い出たとすれば」(18:12)
「迷い出る」は受身形です。
誰かに排除されて群れの外へ追いやられた、誘惑によって外へおびき出された、という言い方です。
これは、18章6節~9節の「つまずき」「つまずかせる」につながっています。
「まことに、主なる神はこう言われる。
見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。」(エゼキエル書34:11)
エゼキエルは、南王国ユダがバビロニアに滅ぼされた時にバビロンに連れていかれた祭司の一人で、
バビロンで預言活動を行いました。
エルサレム神殿が破壊されたという報せに続いて、この預言が語られています。
「わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、
傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。」(エゼキエル書34:16)
「わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。
立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。
・・・どうしてお前たちは死んでよいだろうか。」(エゼキエル書33:11)
「立ち帰る」は、シューブというヘブライ語で、
これは新約聖書の「悔い改める」(メタノエオー)にあたります。
これを受けて、
「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」(18:14)
と語っているのです。
祖国が滅びてしまったのに、
指導者たちは民をほったらかしにして、自分の利益を追い求めている。
その状態が同じように、主イエスの目の前に広がっていたのです。
ローマによって蹴散らされたユダヤの国、
そんな中で民を守ろうとせず、敵対する勢力を叩き、
民を自分たちの言うとおりにさせようと、一所懸命になっている。
初代教会においても、力のある人やお金持ちが大事にされ、無力な人や貧しい人が軽んじられたのでしょう。
そういう中で、
「これらの小さな者を一人でも軽んじないように」(18:10)
と、
「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」(18:14)
という言葉とが枠組みになって、
「迷い出た羊を探しに行く」たとえが語られています。
「あなたがたはどう思うか。」(18:12)
あなたは小さな者を軽んじていないか、自分は何の値打ちもない者だと嘆いていないか。
群れから迷い出たあなたを、神は探し求めておられる。
あなたの周りでつまずいている人がいたら、探し出して心を配りなさい。
そんな風に、何通りにも受け取れるのです。
聖書は、いろんな角度から何度も読み返し、
自分の置かれた場でとらえ直しなさいと、迫ってきます。
(2019年9月1日)