誰がいちばん偉いか

マタイ福音書18章1~9

「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」(18:1)

マタイ福音書は、「神」を「天」に言い換えて語ります。
「天の国」は、「神の国」の言い換えです。
「神の国」とは、神の支配、神の力がこの世界に及ぶこと、神の御心がこの世界に行き渡る状態を言います。

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「いちばん偉い」は、「大きい」という言葉です。
「大きい」に対して「小さい」が対比されています。

「子供のようにならなければ」(18:3)

この「子供」を、子供のように無邪気に、純真に、疑わず、素直に、ただ神様だけを頼りにして生きるという風に、長いあいだ教会は理解してきました。
しかしこれは、「誰がいちばん大きいか」と問う弟子たちに対して、「大きさを求めてはならない」という話なのです。

つまり、偉大な信仰者になろう、立派な行いを重ねよう、という姿勢が根本的に間違っていると言われたのです。
無力な者、軽んじられている者に、神は目を留めてくださるのです。

6節から9節に、「つまずき」、「つまずかせる」という言葉が集中的に6回出てきます。
聖書では比喩的に、「信仰を失わせる」という意味で使われます。

「世は人をつまずかせるから不幸だ。」(18:7)

「不幸だ。」は、「災いだ。」という言葉です。
「災いだ。」(ホーイ)は、預言者が王や世の指導者たちに向かって繰り返し語った、断罪の言葉です。
「不幸だ」は、「オーアイ」というギリシア語で、「おお」「ああ」といううめき声、痛みや嘆きを表す叫びです。

「ああ、何ということだ。人をつまずかせるとは。」
小さな者の信仰を失わせる者は本当に災いだ、という厳しい言葉です。

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初代教会では、律法をそれまでのように大切にしようとする人もいました。
そんな中で、財産もなく、後ろ盾のない人は、軽んじられたことでしょう。
そんな事情を反映して、互いに助け合いなさい、神の目にすべてのいのちは貴いのだ、と語られているのです。

これは、小さな存在を軽んじる、わたしたちに対する警告でもあります。
立派な者になりたいと願うのではなく、神の前に小さな存在であることを受け止めましょう。

神の愛に応えて、小さな存在を大切にし、隣り人と共に生きるようにと、招いてくださっているのです。
(2019年8月25日)

 
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