マタイ福音書19章27~20章16
「ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。」(20:1)
この主人は、9時頃、12時頃、3時頃と何度も出かけて行きます。
普通は、朝一番に必要な人数を雇って、それでお終いです。
後から何度も雇うなどということはありません。
これは現実の話ではなく、
「天の国」(20:1)
のたとえなのです。
夕方になって賃金を払う時、主人はこう言います。
「最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい」(20:8)
わずかの時間しか働いていないために心細く思っている人を、
早く安心させてやろうとしたのです。
最後に、朝早くから働いた人たちの番がきます。
ずいぶん気前の良い主人だから、きっと自分たちはたくさんもらえるに違いない、と期待していた。
ところが、同じ1デナリオンだった。
そこで不平を言います。
「まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。」(20:12)
この場面は、放蕩息子の物語と重なります。
落ちぶれた姿で帰ってきた弟息子を見つけた父親は、走り寄って抱きかかえ、祝宴を開いて喜びます。
兄がそれを見て、腹を立てます。
自分が懸命に働いていたとき、弟は放蕩の限りを尽くした。
そんな弟を喜んで迎えるのか。
「お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。
祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」(ルカ15:32)
父の言葉は、まる一日働いた人たちをなだめる主人の言葉と重なります。
「わたしの気前のよさをねたむのか。」(20:15)
直訳すると、
「あなたの目が悪くて、わたしの善が見えないのか」
です。
「悪い」はポネーロス、
「気前のよさ」(20:15)
はアガソスというギリシア語です。
「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(5:45)
この「悪人」はポネーロス、「善人」はアガソスです。
ですからこれは、「悪人にも、善人にも」ポネーロスにもアガソスにも、
「太陽を昇らせ、雨を降らせてくださる」という言葉とつながっています。
「このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」(20:16)
この話は、「わたしたちこそ」と胸を張っている人に向かって、語られています。
しかし、神の前では、誰も自分を誇ることができません。
働きの大きさに関係なく、神は愛してくださる。
神の憐れみ深い姿が見えないのか、と呼びかけてくださるのです。
(2019年10月13日)