マタイ福音書20章17~28
「人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。
彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。」(20:18~19)
再び受難が予告されます。
「異邦人に引き渡され、十字架につけられる」とは、
神に捨てられ、呪われた無惨な死を遂げるという驚くべき言葉です。
これに続いて、
二人をあなたの右と左にという願いが語られます。
主イエスにとって、エルサレムに上って行くことは、
父なる神の御心に従って死ぬことを意味していました。
ところが弟子たちは、自分たちが活躍する舞台が巡ってきたと期待を募らせ、
世の中を動かしていこうという野心に燃えていたのです。
「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。
このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」(20:22)
「杯を飲む」とは、「神の怒りを身に受ける」ことを意味します。
ところが、二人は「できます」と答えます。
あまり深く考えないで、何でもやりますと答えたのです。
そこで、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。
「異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。
しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。」(20:25~26)
「異邦人の間では・・・」を文字通り受け取ると、神を知らない異邦人は・・・と蔑視していくことになります。
ところが、支配者たちが民を支配し権力を振るっているのは、異邦人だけではありません。
ですから、人間の社会では当たり前だ、
でもそれを当然と考えてはならない、ということなのです。
「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、
いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。」(20:26~27)
「仕える者」とは「給仕」、「僕」とは「奴隷」です。
ですから、「人の上に立ちたい者は、奴隷になれ」という、きびしい言葉なのです。
弟子たちは、その真意が分からず、ただ戸惑うばかりでした。
「多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」(20:28)
古代において「身代金」とは、奴隷を解放するために払う代価です。
主イエスは、多くの人を解放するために、自分の命を差し出すために来た、と言われるのです。
この箇所を、「互いに仕え合いましょう」などとまとめるのは、ちょっと軽すぎるのです。
偉くなりたい、褒められたい、と願うわたしたちに、
「仕える者」「僕」になりなさい、「小さな者」「子供」になることを選びなさい、
と呼びかけておられるのです。
「小さな者」の苦労、悲しみ、辛さに、神は目を留めてくださるからです。
(2019年10月20日)