マタイ福音書15章21~28
今日の舞台は、ガリラヤではありません。
マルコ福音書の並行記事では、
「女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであった」(マルコ7:26)
とされています。ギリシア語を話す国際人といった表現です。
しかし、マタイ福音書は「カナンの女」(15:22)という言い方で、土着の人という感じです。
「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。」(15:22)
「イスラエルの人たちが待ち望んでいるメシア、救い主とお見受けします。」という呼びかけです。
「娘が悪霊にひどく苦しめられています」(15:22)
手の施しようがない難病です。
「主よ、どうかお助けください」(15:25)
水の上を歩いていたペトロが沈みかけて、
「主よ、助けてください」(14:30)
と叫びます。
「主よ、助けてください」、「信仰の薄い者よ」(14:31)
と、
「主よ、どうかお助けください」(15:25)、「あなたの信仰は立派だ。」(15:28)
が対照的に置かれ、響き合っています。
ところが、実は言葉が違うのです。
ペトロの方は、普通に使われる「助ける」(ソーゾー)という言葉です。
カナンの女の方は、悲鳴を聞いて駆け寄る、という言葉です。
この女性は、娘の病気のせいで、近所の人たちから冷たい仕打ちを受けていたでしょう。
差別と偏見に苦しんできたわたしたちは、ガリラヤの民を思うあなたの気持ちがよく分かります。
どうかわたしたちも、あなたの食卓に連ならせてください。
こういう叫びが、ほとばしり出ます。
「小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」(15:27)
異邦人であるわたしたちも、おこぼれを頂戴できるはずです。
あなたの食卓に座ることが許されないのなら、食卓からこぼれ落ちるものをいただくことをお許しください。
「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。」(15:28)
「立派だ」は、大きいという言葉です。
「信仰」は、ピスティスというギリシア語です。
ピスティスは、「信頼」「真実」という言葉です。
差別と偏見に苦しんできた女性が、「あなたのひたむきな信頼に心動かされた」という主イエスの言葉に、どれほど慰められたことでしょう。
受け入れられた、もはやのけ者ではないという喜びが溢れたことでしょう。
「主よ、どうかお助けください」(15:25)
苦しい時、辛い時は、悲鳴をあげていいのです。
わたしたちの悲鳴を聞いて、駆け寄ってくださる方だと信頼し、主イエスを見上げて歩んでいきましょう。
(2019年6月16日)