マタイ福音書15章29~39
「群衆がかわいそうだ。」(15:32)
「かわいそうだ」は、「深く憐れむ」(スプランクニゾマイ)、はらわたが震えるほど気の毒に思うという言葉です。
三つのたとえ話に出て来ます。
良きサマリア人のたとえ(ルカ10章)、
放蕩息子の父親(ルカ15章)、
仲間を赦さない家来の主君(マタイ18章)です。
行く手を見失った羊のような打ちひしがれた姿を見て、憐れに思う。
このまま放っておくわけにはいかない。
「パンは幾つあるか」(15:34)
あなたがたは手もとにパンを幾つ持っているか、という問いです。
この世の巨大な力を前にして、無力感を覚えるわたしたちに、あなたの手元は空っぽなのか、と問われるのです。
「七つあります。それに、小さい魚が少しばかり」(15:34)
「七」は完全数です。わずかのものでも、神の目にはそれで十分なのです。
人里離れた場所で、大勢の人にパンを分け与えることには、いろんな意味があります。
どこの誰とも分からない、見知らぬ人たちです。
人里離れた場所には、汚れた霊がうようよしているとされていました。
手を洗い清める水もありません。
誰が焼いたパンかも分かりません。
こんなものを食べてはならなかったのです。
ところが、主イエスが感謝と賛美の祈りを捧げて、分けてくださると、
「人々は皆、食べて満腹した。残ったパンの屑を集めると、七つの籠いっぱいになった。」(15:37)
何もないと嘆くわたしたちが、手元にあるわずかなものを差し出して主イエスに祝福していただくとき、
隔ての壁を越えた分かち合いの食事が実現するのです。
主イエスからいただく命のパンによって、
空腹が満たされるだけでなく、不安と絶望が吹き飛び、嘆きが取り去られるのです。
「パンは幾つあるか」
あなたにできることは、幾つ残っているか。
自分の無力を嘆くだけでいいのか。
あなたの出来ることを果たしなさい、という呼びかけです。
わたしたちの力を用いてくださいと差し出す時、神が用いてくださって、
思いがけない大きな働きとなるのです。
(2019年6月23日)