人を汚すもの、生かすもの

マタイ福音書15章1~20

 

 

食事の前に手を洗うのは、別に悪い習慣ではありません。
しかしユダヤでは、宗教的な清めの掟でした。

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食べ物を汚れた手のままで食べると、汚れが体に入る。
だから、念入りに手を洗う。
市場では汚れた人と接触する。
だから市場から帰ったら、沐浴して清めなさい、と教えていたのです。

主イエスは、社会の片隅に押しやられて踏みつけにされている人たちに近づいて、「友よ」と呼びかけ一緒に食事をなさいました。
主イエスに「食事の前に手を洗う」よう要求することは、徴税人や罪人との交わりを絶つように迫っているのです。

「すべて口に入るものは、腹を通って外に出されることが分からないのか。」(15:17)

ここで「外」はギリシア語で「アフェドローン」、「便所」という言葉です。
どんなに念入りに手を洗っても、どれほど身を清めても、汚れたものがあなたの腹から出てくる、という痛烈な皮肉なのです。

この記事はマルコ福音書とほとんど同じですが、
大切な一句、

「こうして、すべての食べ物は清められる。」(マルコ7: 19)

を、マタイ福音書は削除しています。

「食べて外へ出されたものはすべて貴い」とは、どういう意味でしょうか。
都会で生活する人にとって、体から出て来たものは汚物でしかありません。
しかし農村においては、命を育てる大切な肥料なのです。

古代において、汚物の処理、死体の処理、動物の死骸を処理する人は、差別の対象でした。

かつて3Kという言葉がありました。
きつい、汚い、危険な仕事を一部の人に押しつけていると言われたのです。

最近、福島の原発の放射能汚染物質の処理を、外国人労働者にしてもらう枠組みを作るというニュースがありました。
わたしたちは、汚いものや危険なものを誰かに押し付けて生きているのです。

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主イエスは言われます。
「外から汚れが来るのではない。汚れは、わたしたち人間の腹の中、心の中にある。
あなたの口から出る言葉が人を汚し、傷つけている。
忠実に神の掟を守って、自分は清さを保っている、と考えるのは、大きな間違いだ。

あなたに根付いている差別感情、自分はあいつらとは違うと考え、
汚い仕事、嫌な仕事を人に押し付けて、自分だけ清さを誇る身勝手さに気付きなさい」

ノアの箱舟に乗せられたのは、清い動物だけではありません。
「清くない動物もすべて一つがいずつ」(創世記7:2)箱舟に乗せられたのです。
わたしたちの尺度で、お前たちはこの箱舟に乗ってはならないと考えることは、許されないのです。
(2019年6月9日)

 

 

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