安心しなさい。わたしだ。

マタイ福音書14章22~36

水の上を歩く話を聞いて、ユダヤの人たちは仰天したはずです。
水の上を歩く、すなわち海を支配するのは、神にしかできないことです。
ですからこの話は、神を冒涜するものとされたはずです。
なぜ、わざわざそんな話を伝えたのでしょうか。

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「本当に、あなたは神の子です。」(14:33)という言葉が出て来ます。
また、主イエスの十字架の死を見届けた百人隊長が、「本当に、この人は神の子だった」(27:54)と言う場面があります。

マタイ福音書は、
「ナザレのイエスは神の子、メシアである。」というメッセージを、こういう物語に託して語っているのです。

「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」(14:27)

この「わたしだ。」は、ギリシア語で「エゴー・エイミー」、「わたしは・・・である。」という言葉です。

これは、「わたしは神である」という宣言です。

「イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ」(14:22)た。

直前にあるのは、「パン五つと魚二匹」(14:17)
五千人が満腹した物語です。
有頂天になっている弟子たちの頭を冷やそうとして、強いて舟に乗せたのです。

いずれ自分はこの世を去る。
残された弟子たちはやっていけるだろうかと案じながら、先に行かせたのです。
「強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、(ペトロは)『主よ、助けてください』と叫んだ。」(14:30)

これは、初代教会の信仰告白の言葉です。

「主よ、我を救いたまえ。」と、繰り返し唱和していたのです。

「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」(14:31)

「信仰の薄い」は、ギリシア語でオリゴ・ピスティスです。
オリゴは「小さい」。
ピスティスは「信仰」と訳されますが、
「信頼」とか「真実」という言葉です。
しかし、信仰が大きいとか小さいとか、言えるでしょうか。

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そもそも自分の力で困難を乗り越えられると考えるのが、間違いです。

祈りは聞かれます。
しかし、わたしたちが願った通りに、ではありません。
多くの信仰者が語っています。
「願ったものは与えられなかった。しかし、願った以上のものが、違う形で与えられた。」

「疑う」(ディスタゾー)は、心が二つに分かれるという言葉です。
わたしたちは疑い、恐れを抱き、揺れ動く中を歩むしかないのです。
しかし、そんなわたしたちを、主イエスは見守り、
「来なさい」(14:29)と招いてくださるのです。
(2019年6月2日)

 
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