すべての人が食べて満腹した

マタイ福音書14章13~21

主イエスは、ヘロデの手から逃れて、人里離れたところに身を引かれました。
しかし大勢の人が追って来ました。
追われる身でありながら、病いの身で追ってくる人々を見て、憐れんで癒された。

その姿を見た弟子たちは、先生、もういい加減にやめましょう、と言ったのです。

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「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。」(14:15)

こいつらの面倒をいつまでみるつもりですか、という弟子たちに対して、

「あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」(14:16)

これは、自己責任だと言って突き離すのではなく、助けあって生きていきなさい、という言葉です。
荒野で五千人が食べ物を分け与えられた物語は、教会の姿を表しています。
人々は、荒野に退いた主イエスの後を追って、自分の家や仕事を放り出して、主イエスのもとに集まりました。
教会は、ギリシア語でエクレシアです。
エクは「外へ」、クレーシアはカレオー「呼ぶ、招く」の受動態を分詞化したもので、
エクレシアは「外へと呼び出されたもの」という言葉です。

今あなたが安住している暮らしから、
あなたが今過ごしている家庭、職場、友達関係から、
その関係をいったん断ち切って出ておいでと呼び出された者の集まり、
これがエクレシア、教会なのです。

人間の集まり、豊かさ、繁栄の対極にあるのが、荒野です。

わたしたちは、荒野で主イエスの言葉を聞き、主イエスのパンをいただき、
新しい命と新しい希望にあふれて、それぞれの場所へ帰っていくのです。

自分の命は自分で守れという、冷たく窮屈な社会の中で、
助け合って生きる。

わたしたちの命は神からいただいたもの、分かち合って生きるのだ、というところに立つ。
これが、外に呼び出されたもの、エクレシア、教会なのです。

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わたしたちの持っているものは、わずかかもしれません。
何の力もないかもしれません。

でも、主から与えられている賜物を取って(生かして)、
神を賛美して、裂いて(分けて)、渡すのです。

すべてが主から与えられたものであり、必要なものは与えられるという信仰に立って、分かち合うのです。

主イエスの言葉に促されて、そうした動きがおびただしい人々の間に広がって、教会となったのです。
数多くの人が、新しい命に生きたのです。
不思議な奇跡の物語を、わたしたちの生き方、わたしたちのものの考え方を根底から覆す、命のパンの物語として受け止めたいと思います。
(2019年5月26日)

 

 
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