からし種ひと粒ほどの信仰

マタイ福音書17章14~23

 

「お弟子たちのところに連れて来ましたが、治すことができませんでした。」(17:16)

と父親が訴えます。
「治す」は、「癒す」とも訳される言葉で、セラペウオーというギリシア語です。
病人に「仕える」、「世話する」という意味の言葉で、その結果として「癒す」、「健全な状態を回復する」のです。

c-sakana1a
マルコ福音書によると、弟子たちは病気の子どもをそっちのけにして、律法学者たちと議論していました。
この子がこんなひどい病気になったのは、どんな罪を犯したからか、
この病気は親のせいか、この罪の贖いのために何を捧げるべきか、
そんな議論をしていたのでしょう。

だからこそ、

「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。」(17:17)

と主イエスが、怒りをもって叱責されたのです。

病気の子供や、病気の子供を抱える親の苦しみはそっちのけで、
自分たちが目立とうとした、あるいはどういうやり方が正しいかと議論していた。

それが癒しの業を何度も見てきた弟子のすることか、と残念に思われたのでしょう。

「終わりの日の裁き」の記事で、

「わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた」(25:35~36)

に続いて、

「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」(25:40)

という言葉があります。
わたしたちに「最も小さい者」と共に生きるようにと、呼びかけておられるのです。

「もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。」(17:20)

これはヘブライ語独特の表現で、「山」は誰もが不可能だと思う困難な課題をいいます。
困難な課題に直面して、あきらめてしまうのではなく、ただ神を信頼して立ち向かうとき、突破口が与えられるのです。

c-sakana2a

弟子たちは、苦しんでいる病気の子どもをそっちのけにして、議論していました。
なぜこうなったのか、どういうやり方があるのか、いくら議論していても、病気の子供は救われません。
何よりも子供に寄り添って仕え、心を通わせることが求められるのです。

目の前で苦しんでいる人に手を差し伸べて、共に喜び共に悲しむことによって、わたしたちの命は豊かなものになるのです。

「最も小さい者の一人に手を差し伸べる」ことによって、目が開け、新しい生き方ができる。
自分の殻に閉じこもっていないで、出て来なさい、立ち上がりなさい。
そう主イエスは、呼びかけておられるのです。
(2019年8月11日)

 

ホームページに戻る