神の国の到来

マタイ福音書12章22~37

 

「群衆は皆驚いて、『この人はダビデの子ではないだろうか』と言った。」(12:23)

この「驚く」という言葉は、別の箇所では「気が変になる」とか、「正気を失う」と翻訳されています。

「まさかこの人がメシアではあるまいな」と、群衆が騒ぎ立てた。
群衆の動揺を抑えようとして、ファリサイ派の人たちは、「あれは悪魔の仕業だ」と言って主イエスを非難したのです。

c-sakana1a
「神の国はあなたたちのところに来ている」(12:28)

これは、イザヤ書につながります。

「いかに美しいことか/山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え/救いを告げ/あなたの神は王となられた、と/シオンに向かって呼ばわる。」(イザヤ書52:7)

この「王となる」の名詞形が、「神の国」です。
バビロンの支配から解放され、すべての民がまことの神を礼拝する日が来る。
これが、イザヤ書における「神の国が来た」の意味するところです。
「わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。」(12:30)

「集める」「散らす」という言葉は、エゼキエル書につながります。
「お前たちは弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。・・・かえって力ずくで、苛酷に群れを支配した。彼らは飼う者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となり、ちりぢりになった。・・・見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。」(エゼキエル書34:4~5、11)

あなたがたが散らした民を、わたしは集め、その傷を癒す、と言われるのです。

c-sakana2a
「“霊”に対する冒涜は赦されない。」(12:31)

これは、ファリサイ派の人たちが、主イエスの癒しの業を「悪魔の仕業だ」と中傷したことを指しています。
聖霊を分かりやすく語っているのは、創世記2章です。

「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(創世記2:7)

人間は土の塵に過ぎない無力な存在ですが、神の命の息(聖霊)を吹き込まれて、生きる力を与えられ、人間として生きるのです。
(2019年2月24日)

 

 

ホームページに戻る