主の僕

マタイ福音書12章9~21

 

「人々はイエスを訴えようと思って」(12:10)とされています。

罠にはめてやろうと待ち構えているところに、主イエスが入ってこられた。
そして手はず通り、

「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」(12:10)

と尋ねたのです。
古代において病気の癒しは、罪の赦しを意味していました。
これは、「安息日に罪を赦すなどという、大それたことをしていいのか」、という問いなのです。

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「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。」(12:11)

羊が命を落としたら、大損する。
だから、助けようと必死になる。
あなたがたは、損得がかかっているときには、安息日など構うものかという人間だろう、という皮肉です。

でもわたしは、この人が辛い思いをしているのが分かる。
だから、今すぐ助けてあげたいのだ。
しかしファリサイ派の人たちは、安息日に病人を癒やすことなど許されない。
罪の赦しを宣言できるのは、神だけだ。
神を冒涜する者は殺さなければならない、と考えたのです。

 

主イエスの振る舞いを、マタイ福音書はイザヤ書42章の「主の僕の歌」と重ね合わせます。

「彼は異邦人に正義を知らせる。」(12:18)、
「正義を勝利に導くまで」(12: 20)

イザヤ書では、「裁き」(ミシュパート)という言葉が使われています。
神の裁きは公正で偏りがないことから、「正義」、「公正」、「公義」などと訳されます。
すべての人が、公正で偏りのない神の裁きに期待を寄せる、というのです。

 

「正義」は、時として人を裁きます。
「正義」を振りかざして、従わない者を切り捨てます。
ファリサイ派の人たちの態度には、そういう面が露骨に出ています。
ところが、神は「萎えた手」(12:10)「傷ついた葦」「くすぶる灯心」(12:20)、すなわち律法を守れないために「役立たずの欠陥品」とされている人たちを、再び輝かせてくださる。
そのことが、病人を癒す主イエスと重ね合わせて語られています。

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主イエスは、力を振るって悪者を懲らしめるダビデのような英雄ではなく、弱い人を暖かく包み、傷ついた人を手当てするメシアであると、マタイ福音書は語ります。
公正で偏りのない神の裁き(ミシュパート)は、役立たずに見えるわたしたちの弱さを包んでくださるのです。

「見よ、わたしの選んだ僕。」(12:18)
「彼の名に望みをかける。」(12:21)

この方に、わたしたちは望みをかけるのです。
(2019年2月17日)

 

 
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