安息日の主

マタイ福音書12章1~8

 

安息日は、神の創造の業を覚えて感謝するために聖別された、休息の日です。
この日には、労働を中断して休息する。
しかも、奴隷も家畜も例外なく休ませるという、とても人に優しいルールです。

ところが、細かい規則が決められて、守らない人間をきびしく責めるようになっていたのです。

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「弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めた。」(12:1)

他人の麦畑で麦の穂を摘んでもいいのだろうか、と不思議に思いますね。

聖書では、「隣人のぶどう畑に入るときは、思う存分満足するまでぶどうを食べてもよい・・・隣人の麦畑に入るときは、手で穂を摘んでもよい」

しかし、「籠に入れてはならない。・・・鎌を使ってはならない。」(申命記23:25~26)

収穫して持ち帰ってはならないのです。
しかし、そこで食べて満腹するのは許される。
畑の持ち主にとっては迷惑でしょうが、お腹が空いている人がいたら畑のぶどうを満腹するまで食べなさい。
麦の穂を摘んで食べて飢えをしのぎなさい。
律法には、こんな優しいルールがあるのです。

ところが、ファリサイ派の人たちはその精神を忘れて、安息日の掟を破ったと、きびしく咎めたのです。

「もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。」(12:7)

これは、ホセア書からの引用です。

ホセア書では、神が望まれるのは「愛」であり、「神を知ること」とされています。
「愛」はヘブライ語で「ヘセド」、「慈しみ」と訳される言葉です。
人間が罪を重ねても見捨てず、どこまでも守ろうとされる神の真実、これがヘセドです。

「知る」とは、男と女が体も心も深く結びつくこと、深い絆で結ばれることです。

わたしたちが神と深い絆で結ばれて一つとなることを、神は望んでおられる。
このホセアの言葉を思い出して、人々を追い詰める無慈悲な姿勢を改めなさい、というのです。

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「人の子は安息日の主なのである。」(12:8)

これは、「すべての人にまことの安息を与えるのは、このわたしだ。」という宣言です。

「わたしの軛を負いなさい。そうすれば、安らぎを得られる。」(11:29)

に通じる言葉です。

ファリサイ派の人たちのように、立派に信仰を貫こうとして苦しむ必要はありません。
わたしたちは赦された者として、喜びを分かち合って生きるのです。
(2019年2月10日)

 
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