休ませてあげよう

マタイ福音書11章25~30

 

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(11:28)

とても慰めに満ちた言葉です。
日々の暮らしに、あるいは仕事や人間関係に疲れ果てている人を慰め、招く言葉として響いてきます。

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「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。・・・わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」(11:29~30)

「軛」(くびき)とは、牛や馬の首にかける横木のことです。
これを、畑を耕す鋤や荷車につないで引かせるのです。
「軛」という言葉は、旧約聖書ではどのように使われているでしょうか。

「わたしの選ぶ断食(礼拝)とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて/虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。」(イザヤ書58:6)

「軛」とは、もっとも狭い意味では、他国による暴力的な支配を指します。
やがて、これが王や権力者による抑圧を指すようになり、
さらに神殿の祭司や宗教的指導者が掟を振りかざして人々を従わせることを含むようになります。

主イエスの「軛」は、わたしたちを押しつぶすような「軛」ではありません。
洗足の場面に、このことがあざやかに示されています。

「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。」(ヨハネ13:14)

主がわたしたちの汚れ、傷に手を添えて、温かく包んでくださった。
だからこそ、互いの弱さをいたわり合い、支え合いなさい。

「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13:34)

これが、主イエスの「新しい掟」です。
律法に代わって、主イエスが与えてくださる「軛」です。

わたしたちを束縛し押しつぶす、社会的な仕組みや習わしは、
今もわたしたちの周りにあふれています。
「でも、そんなものに縛られなくていいのだ。わたしが新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。」
と主イエスは語ってくださった。これに、尽きるのです。

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弟子の足を洗ったわたしの姿に学んで、互いに助け合いなさい、いたわり合いなさい。
そして、神の安らぎ、安息を手にしなさい。
こう語ってくださったのです。
(2019年2月3日)

 

 

 
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