毒麦のたとえ

マタイ福音書13章24~30 、36~43

 

「ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。」(13:24~25)

「畑」は、世界を表しています。
神が祝福してくださった世界に、どうしてこんなに「悪人」がのさばるのか。

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僕たちが言います。

「では、行って抜き集めておきましょうか。」(13:28)

神に代わって立ち上がり、悪を撃とうというのです。
この世界を駄目にしているのは、あいつだ。あいつを抹殺しよう。
ところが神は、

「刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。」(13:30)

と言われるのです。

「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(5:44)

これは、主イエスのご命令です。
パウロは申命記を引用して、語っています。

「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」(ローマ書12:19)

復讐してはならない。
復讐は、神の仕事だ。

聖書は一貫して、「悪人が滅びるのを、神は望んでおられない」、「敵を愛しなさい」と語ります。
ノアの箱舟には、清くない動物も乗せられたのです。

キング牧師が公民権運動のために戦った時期は、ベトナム戦争と重なります。
キング牧師は語っています。

「わたしたちは、黒人の権利を守る戦いだけを戦っていてはならない。この国が正義の戦いと称して、間違った戦争をしていることを止めなければならない。」

「主イエスは、ご自分の敵をあまりにも愛したために、その敵のために死なれたお方である。」

わたしたちは、自分の気に入った人とだけ生きていこうとします。
しかし、主イエスは敵対する人をも愛そうとされたのです。

植物であれば、実りを生む麦か雑草か、見分けることができます。
しかし、人間はどうでしょう。
良い人と悪い人を、はっきり識別できるでしょうか。

人間は誰でも、良いこともするし悪いこともするのです。
あの人がいなければ、どんなに楽だろう。
死んでほしいとさえ、願うことがあります。
そんなわたしたちに、「わたしが裁く。あなたが裁いてはならない」、と言われるのです。

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これは、悪事を放置することとは違います。
悪事は、きびしく批判すべきです。
しかし、「悪人」を排除し、抹殺してはならないのです。

「悪人」をも、神は大切になさるのです。

すべての人が立ち帰るのを、神は忍耐して待っておられるのです。
わたしたちも毒麦であったが、赦されたのです。
そのことを思い返し、わたしたちを苦しめる者のために祈る者へと変えられたいと願います。
(2019年4月7日)

 

 
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