安息日の主

ルカ福音書6章1~11

「安息日」には、二つの根拠があります。
一つは、奴隷の地エジプトから約束の地に導かれたことを忘れないために、
七日に一度、労働を中断すること。

もう一つは、神が世界と生き物を造り、
満足なさって創造の仕事を終えられたことを覚えること。

ヘブライ語のシャバートには、「休む」という意味はありません。
「中断する」、「止める」という意味の言葉です。

働き続けるのを中断し、神の創造を思い起こすのです。

今、世界で温暖化が進み、環境破壊が進んでいます。
あちこちで戦争が起こり、人の命が軽んじられています。

格差が拡大し、命が脅かされています。

そのことに目を留めることが、安息日にふさわしいのではないでしょうか。

ファリサイ派の人たちは、
「人の子は安息日の主である。」という主イエスの言葉に腹を立てました。

これは、安息日の細かな掟に、わたしは縛られない、という宣言です。

これは、自分を神とする発言だ、と人々の怒りをかったのです。

「また、ほかの安息日に、イエスは会堂に入って教えておられた。そこに一人の人がいて、その右手が萎えていた。」(6:6)

別の安息日、いつものように会堂で教えておられた。
「萎えていた」というのは、「乾いた」「しなびた」という意味の言葉です。
思うように手が動かない、ということです。

右手が動かないと、いろんな作業がうまくできません。
つまり、一人前に働けない、気の毒な状態だったのです。

「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。」(6:9)

ここには、二重に皮肉が込められています。

一つは、右手の萎えた人を癒すことが善であると知りながら、見過ごしにするのか。
助けないことが、善を行うことになるのか、という問いかけです。

もう一つは、人を生かそうとする主イエスと、
主イエスを捕らようとする彼らを対比して、
人を殺そうと考えるのは、働くことではないから、安息日にしても良いのだね、
という痛烈な皮肉です。

これは、「神の創造の業を思い起こす時、何をすべきか。」という風に、
言い換えることができます。

わたしたちは、病を癒すことはできません。
しかし、困っている人、気の毒な境遇にある人を励まし、助けることはできます。

神から、命を与えられていること、
この豊かな世界、豊かな自然を与えられていることを感謝して、
それに応えるために、わたしたちはどんな責任を果たすべきか。
そのことを考え、決めていく責任が、一人ひとりにはあるのだ。
そう受け止める時、いろんなことが見えてくるのではないでしょうか。
(2021年4月18日)

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