ガラテヤ書3章15~29
「相続が律法に由来するものなら、もはや、それは約束に由来するものではありません。」(3:18)
「約束」とは、アブラハムに与えられた約束(創世記12:2~3)を指しています。
すべての民が祝福に入るという約束は、今も有効だというのです。
「律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となった」(3:24)
神に従う道から逸脱しないように守るべき事項を明示すること、
一人前の大人に成長するよう導くこと、
こうした養育係の役割を律法は持っていると語ります。
「信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。」(3:23)
「信仰が現れる前には」とは、
「キリストの真実が、人々の目に明らかになる前には」という意味です。
「啓示される」とは、覆いがはずされて、はっきり見えるようになる、ということです。
つまり、それまでは分からなかった神の御心が、キリストの言葉と十字架によって、はっきりと分かった。
それまでわたしたちは、律法の下に閉じ込められ、縛り付けられていた、というのです。
「もはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。」(3:28)
民族の違いや社会的身分の違いが、意味を失うのです。
実は、「男も女もありません」は、前の句と用語が違います。
「男と女」というくくりではない、という言い方です。
ここには、「男による女の支配」を当然とする、当時の考え方を否定する意図があります。
世界が造られたとき、神はいのちの多様性と豊かさを祝福されました。
それにもかかわらず、家父長支配が当然とされ、創造の秩序が歪められてきたのです。
男と女でもそうですし、父と子においても、命令する人と従う人という歪んだ関係性が続いてきました。
しかし、今やキリストにおいて、
男と女の関係性が、神が世界を造られたときの姿に回復される、
人と人との関係性が、互いに敬意を持って接する関係へと回復されるのです。
「あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」(3:28)
ここで「一つ」とは、
「一つの体」(ローマ書12章、Ⅰコリント12章)
という意味です。
皆が同じように考え、同じように行動する、ということではありません。
人間の体に手があり足があり、目があり耳があるように、
それぞれの違いを尊重し、隣の人の弱さを思いやりながら、
「一つの体」として歩むのです。
(2020年10月11日)