ガラテヤ書1章1~10
ガラテヤ書は、主イエスの十字架から20年近く経った頃、
ガラテヤ地方の諸教会に宛ててパウロが書いた手紙です。
ガラテヤは、現在のトルコの真中あたりの広い地域で、ローマに支配されていました。

「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ」(1:1)
人間的な権威によってではなく、イエス・キリストと神から、じかに使徒とされたパウロ、というのです。
なぜ、こんな言い方をしたのでしょうか。
主イエスの直弟子でもなく、こともあろうに教会を迫害していたパウロが、
どうして「使徒」と言えるのか。
怪しい奴だ。パウロは、そういう疑いの目で見られていたのです。
「わたしたちの父である神と、主イエス・キリストの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」(1:3)
「平和」エイレネーは、ヘブライ語のシャロームにつながっています。
シャロームは、神との関係が正しく整えられ、心も体も健全で、平安に満ちている状態です。
ローマがもたらした「平和」エイレネーは、軍事力によって屈服させ、殺戮によって作られた偽りの平和です。
ですから、ローマが与える「平和」エイレネーではなくて、
神とキリストが与える「平和」シャロームがあるように、という意図が込められているのです。
6節~9節で「福音」ユーアンゲリオンという言葉が5回出てきます。
アウグストゥス(神なる者)の勝利は、「地に平和をもたらす神の誕生という『福音』である。」という碑文が残っています。
ここでは、ローマの支配を厳しく批判して、「キリストの福音」(1:7)を主張しているのです。

ガラテヤ書がなぜ書かれたかについては、6節以下に出て来ます。
キリストの福音だけでは足りない、律法の掟をしっかり守り、割礼を受けなければならない、という言葉に惑わされて、
あなたがたは神の憐れみと恵みを台なしにしようとしている。
こうパウロは、必死に説いています。
本当に自分は救われているのだろうかと心細く思い、いろんなことを足し算していこうとする考え方に対して、
パウロははっきりと、そうではないと言うのです。
そもそもわたしたちは、何の良いものも持っていない。
ただ神の憐れみによって、すべてを赦され、神に受け入れられる。
それだけなのだ、とパウロは語るのです。
(2020年9月6日)
